元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

よりよく生きるための何か ふっきりたい やりぬけ

本来の日記部分

  • 体調

今年の夏は、あまり外に出ていないせいか、「不健康極まりない」という表現がぴったりですね。こころなしかお腹も出てきたような気が。。

ですが、「ココロ」は健康になってきたというか。。 不純物質をせっせと排出して、良質な栄養を入れようと心がけてきましたので。
ココロの健康のために身体の健康を犠牲にしているという。。これは、よくない。反省材料のひとつですね。

まァ今は、今に限っては、極端に「ココロ」のほうに振れているのは仕方がないかな、とは思っています。

再録・継続

  • 信仰について(20070316)

3/16に殴り書きですが「信仰について」書いていましたねえ。初々しい。。
これが、自分が引いたトリガーなのでしょうね。そしてまた、「4ヶ月」後に潜伏期間を終え、自分の意識上に浮上してくる。。
「4ヶ月」というのは、自分のリズムのようです。

このときはまだ「何にも帰依しない」と書いていますね。「禅」について考え始めたのはこの後です。
「禅」ならばよいのではないかと。。なぜなら鈴木大拙がいう「わび」について共感できたからです。

「何にも帰依しない」以外は、自分の意見は何も変わっていません。変わる理由もないですし。

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • ふっきりたい

最近、ムカシ懐かしい土地などを、猛暑の中、しゃかりきになって歩いている自分がいるわけです。
これはもう、完全に「苦行」の域に達しているのですが。。

これを行う理由が、自分の潜在意識の中には、あるようです。
何かをふっきりたい、というか。。

そして、「ムカシ懐かしい土地」に呼ばれるような感覚、そして、実際その土地に降り立つというのも、その苦行の要素として必要らしいのです。「ふっきる」ために。。

そういうときは、楽観的に「自分はこれからどこへ向かうのだろうか。。」なんてセンチなことを考えたりもします。

とにかく、どこへ向かうかというのはわからないのですが、「変わり目」だというのはわかっています。
1年前、自分がこの日記をつけ始めたときも「変わり目」でした。この「日記」をつけるという行為からして。。

1年で次の変わり目がくる、というのは、サイクルとしてはちょっと早いのかもしれませんが、このように書き出し(掻き出し)を続けているがためにサイクルが早まっている、というのもあるのでしょう。

人生観、のような、思想の話

  • よりよく生きるための「何か」(【重要】マーク)

自分は、よりよく生きるための「何か」を探し中なのだなあ、という自覚はあるわけですが。。
その「何か」とはおそらく普遍的で、納得感のある、「方法論」のようなものだと考えます。

ただ、この「何か」を探しているという行為は決して「自分探し」ではないのです。自分はとっくに見つかっている、というのは何度も書き出しているとおりです。

この「何か」は、実は潜在意識の中では完全に「わかっている」のでしょうね。
それを、潜在意識から取り出すことの恐れ、躊躇があるから、まずはその恐れを取り除かないといけないのです。
「探す」というのは、イメージとしては、「潜在意識」という深い沼に、ほしいものが落ちている、というのはわかっているのですが、その周りを虚しく探し続けているような状態。
対外的には、「探している」というポーズにはなっているわけです。「ホントに、どこにあるのかわからない」という顔をして。。ホントはどこにあるか知っているのに。

だから、私がホントにやるべきことは、このイメージの比喩でいえば、「泳ぐ練習ではなく、『潜る』練習をすること、泳げるという段階はクリアしているのだから、『潜る』ことに対する恐怖感を無くすこと」であり、そのために水着に着替えることであり、その「潜在意識」という深い沼ではない、練習用の浅い沼を探すことであるはずです。

その具体的行動になかなか移れないという。。


話飛びますが、「掃き清める」は端的にこの「何か」のヒントになっているはずです。
自分は、平日の朝、自宅のベランダとドア前を「掃き清める」のが最近楽しい。
おそらく、こういうことなのです。

  • 物語って

村上春樹さんのインタビューを読んでいて考えるのは、表現方法としてはどうしても「物語」でなければならない! ということだと思うのです。
物語の形式にしなければ「思い」「情念」のようなものが伝わらないという自覚がある。そしてそれは、うかつに具体化、あるいは言語化できないからこそ物語になるのであって。

ですから、まず形式としての「物語を書きたい」というのが先にくるのは、ちょっと違うのではないか、と思ってしまうのですね。
最初から、コトバにはできる、という自覚があるのだったら、箇条書きとか、評論とか、批評という形をとればいいのです。


という意味で、最近、なんだかいろいろなヒトたちが「絵本」方面に向かってゆくのが。。強烈に違和感がありますね。絵本は確かに、物語を昇華していった結果という感じがしないでもないですが、あえてそれに意図的に接近してゆくというのは。。

そういうヒトたちには、絵本よりも詩に向かったらよいのではないか、とアドバイスしたいですが。
なぜ絵本に向かうか、というと、ひとヤマ当てれば一生食いっぱぐれないから、と、それだけの理由でしょうからね。

資本主義と、物語を書きたいという原始的な衝動とは、ゼッタイに相容れないものだと思います。

  • 自分の話の続きが気になる(物語って2)(【重要】マーク)

もしかしたら、物書きの方たちは皆そうなのかもしれませんが、とにかく、イメージが先にあって、まず書き始めてみる。あとは野となれ山となれ、みたいな。。 でもプロだから、物語の世界(「あっちの」世界)からは必ず戻ってきて、物語としては着地させる。「行きっぱなし」にはならない、と。

自分の作品について「続きが気になってくる」ということを、言うんですよね。すごく、不思議な言い回しなのですが。。
たとえば、前の小説で主人公はラストでどこかに旅に出た、と。その小説を書ききったときは、そういうラストにする必然性があった、と。で、何年かすると、その主人公はどこに行ったのだろう、というのが気になってくるそうなんですね。

脚本がないということですよね。その主人公に対して、こうあるべきだという押し付け(プロット、結果)をまず付与しない。
ただただ、そのときは旅に出る以外になかった主人公、自分のもとを離れた主人公が、その後どうしているのか。
それが、自分がまた盛り上がってきて、書き始めてみないと、わからないという。。


いや、ホントは潜在意識の底では、何か確固たるものがあるのでしょうね。また書きたい、と思わせる、なにか「むくむくっと」した思いが起き上がってくるということは。

その時点ではまだ主人公は、「根源的な闇」(昨日の日記参照)の中にいるから、書き出すという行為により「彼」をひきあげてやらなければならない。


書き出してみないと、エンディングも見えない。その主人公がまたどのような「冒険」をするのかもわからない。。
でも、また必ずエンディングを迎える。この世に現出する物語というのは、無限ではありえないからです。

でも、その、必ず迎えるエンディングの「脚本」も、はじめから「根源的な闇」の中に隠されているものなのでしょうか。それはよく、わかりません。
その「根源的な闇」の中には時間の流れというのはあるのか。。それとも、ムカシ流行ったいわゆる「パラレル・ワールド」なのだろうか。


と、考えると、ホントはその主人公の物語は、「根源的な闇」の中では誕生から死亡まで延々とうねりながら続いていて、作家は、何か「啓示」のようなものがあったときにだけ部分的に闇の中から物語を取り出して、「小説」というアウトプットとして世の中に提示する、ということでしょうか。

作家の理想像としては、まず、その「啓示」があること、次に、物語を小説というかたちで世に出す「技量」を持つこと。そしてもっとも大事なのは、闇の中に無数の物語を持つことなのでしょう。

  • 「やりぬけ」

「気付き」はすでにこちらにあると思うのです。自分にはあって大多数の他人にはないもの。
自分は、大多数の他人が目をそらそうとする部分を見てきたという自負はあるので。

この「気付き」がなければ停滞は免れないと思うのです。

でも、別に他人に「気付いてください」とも言う必要もないのです。「余計なお世話」と言われるのも馬鹿らしいことです。

すでに先達が指摘しているとおり、他人とは基本的に「わかりあえない」のですから。
それも自分の「気付き」に内包されている一要素なのです。

停滞を無意識的であれのぞむヒトたちには、勝手にどうぞ、という思いなのです。(「勝手にどうぞ」とわざわざ言うこともしませんが)

ただし、そういうヒトたちは私の言動、振る舞いに対して「ちょっと違う」と思うようになってくるはずです。それは当然のことで、考え方の「差異」に端を発するものです。そしてそれは不穏なものでもあり、その感情は近い将来、敵対感情に近いものになってきます。なぜならば、カレらは嫉妬羨望の感情をムキ出しにすることはプライドがジャマしてできず、それを抑圧させると敵対感情として爆発させるしかなくなって
それをどう切り抜けるか、でしょうね。。
それを考えるために仏教の(つまり、『すごい先達』の)思想を学んでいる、ともいえましょう。

「こうありたい」または反面教師

  • 現代の「ならず者」

現代の「ならず者」(イコール「民度が低い」ヒト)たちが行うのは、直接的な暴力ではなくもっと間接的で、かつ陰湿なものです。

それはふたつの源流から発するものです。ひとつは、「自分さえよければよい」という考えからくるもの。もうひとつは、「よかれと思って」他人におしつけるものです。


他人をしつこく勧誘してネズミ講なりアヤしい英会話教材なり、アヤしい宗教まがいに引きずり込んで大金を巻き上げるのは後者ですね。

この例はとてもわかりやすいのですが、世の中で行われている「搾取」はすべて、現代版の暴力であり、それは至るところで潜行して、かつ陰湿に行われていますし、さらに悪いことに、ただ生きているだけで搾取はされます。これが、現代版「苦行」にあたるのでしょう。
ただ生きているだけで現代版の暴力にさらされる可能性がある。ある意味、他人は私をほおっておいてはくれない。

だから、常にガードを固めておかなければならないのです。実際問題、いくら昭和ノスタルジーに浸ってみても、「世知辛い」世の中になっているのは間違いないのですから。

以前に書いた、「ココロ」のガードを固めておいて鋼鉄のようにしておく、というのも、同じです。
「ココロ」のガードを固めないと容易に「トラウマ」をつくってしまいます。現代人は「トラウマ」作りたがりなのでこれは大問題なのですが。。

それでも日本人は(特に、「東京人」は)、精神的にも実生活の中でも、いまだガードが甘いですよね。自分が現代版暴力のスレスレのところで生きているという自覚がない。
自分に忍び寄る間接暴力の影に対して、常に敏感でなければなりません。

だから、そもそもヒトとの付き合いは最低限にすべきなのです。オトナになったら「トモダチ100人」は不要なのです。
だって、信じていたヒトにも裏切られる世の中ですからね。真実とはそういうものです。


ところで、今ふと思ったのですが。。以前の「薬害エイズ問題」のようなやりきれない暴力は、どちらにあたるのでしょうか。
前者と後者の中間ぐらいでしょうか。

患者を治そうと思って使った血液製剤により、患者が「エイズ」という致命的な病に冒されてしまう。

調べてみれば、その輸入血液製剤はアブナいという報告は、ある上層部までは届いていた、と。でも、その上層部は、儲け話を失いたくない、「ちょっとぐらい大丈夫だろう」という致命的な判断ミスにより、大問題に発展した。。

その中間にいる、血液製剤を患者に処方した医師は、おそらく知らなかったのでしょうね。でも、犯罪に加担したことになってしまう。そしておそらく医師も、良心の呵責に苛まれることになるのでしょう。

これらが「暴力」であることは間違いないのですが、この暴力というのは、資本主義社会においては必ず生まれるキケン性をはらんでいるわけです。「せっかくの儲け話を失いたくない」「ちょっとぐらいなら大丈夫だろう」という理由により、利益を優先する、という流れは、企業にとっては「当たり前」の選択なのかもしれないのです。

客の身体に害のある成分を入れているのをわかって、商品を売っている、というのはもう常態化しているわけですね。(肉屋とか菓子屋とか牛乳屋とか。。)
告発されても告発されても、「ウチはバレないだろう」と思って売り続けているメーカは、いまだにたくさんあるでしょう。ですから、これからもっともっと内部告発されたりして、表面化してゆくことでしょう。

  • 複雑な世の中考

世の中は、教育水準の向上に比例して複雑になってきています。
それはもう、加速度がついているので止まらないものですし、一部の知的水準が高い(?)ヒトたちがさらに加速させようとしています。
だからまず、この流れはちょっとやそっとでは戻らないと考えていたほうがいい。我々世代が死に絶えるぐらいまでは。

ですが、ひとムカシ前、この流れに歯止めをかけようとして「ゆとり教育」なるカウンターが出てきて、それは世の中の流れは全く止められないままに、この複雑になってゆく社会に適応できない人種を大量に産み落としました。
あるヒトはこの現実から逃避し、またあるヒトは、自分の周りだけでも、時計の針を戻そう、あるいはゆっくりにしようとし、つまり、自分たち「だけ」が暮らしやすい世の中に変えようと画策しています。


この流れが多少ゆっくりになってきたとしても、それがすぐに「逆コース」にいくことはおそらくないでしょう。(「おそらく」というのはちょっと弱いところで。。 日本人はすぐ全体主義に走りますから、誰かしらカリスマが登場して日本の舵を切ったら、あっという間に逆コースに向かう危険性も孕んでいます)
「この複雑な現代社会に」(by探偵ナイトスクープ)対して、ハナからここに適応する気もない人種が組み込まれてきています。さて、果たしてこれからどうなることやら。。 ということを、皆考え始めていますね。
私も考えています。

免許を持たない人間がどんどん公道で車を走らせるようになってきた、というイメージでしょうか。
その影響としては、単にアブナっかしいのはもちろんのこと、「ああ、無免許でもいいんだ?」と、それをマネする「いいオトナ」が増えてきますね。私がよく例に出す「言い訳しながら茶髪にするオトナたち」です。

そして、「無免許」は、悪気もなく車をブツけます。他人に。
これが、最近私の考える、新時代の「現代版暴力」です。
「だって、自分無免許だし。。ブツけるのもしかたないじゃん?」みたいな。。「無免許のオレ(アタシ)が公道で車を走らすことを許してる社会が悪いんじゃないの?」という言い訳が効きます。そういう言い訳がバックボーンとしてあるからこそ、彼らは安心して他人に車をブツけてゆくわけで。。

勝手に、浜田省吾さんにならって"It's a 'New Style Violence!'"とでも名づけましょうか。

死、あるいは宗教に近い話

  • 宗教の排他性

宗教が素人にとって問題視されるのは、その排他性であり、宗教間で互いに優劣をつけることでしょう。それぞれが互いを認めようとせず、自分たちの信仰している教義、仏、あるいは神こそがゼッタイである、と信じて疑わない。そういうときのカレらの目は、とてもアヤしい。

  • 仏教の「入り込む」感じ

宗教が生活に自然に溶け込んでいる様子というのは全く不愉快ではありません。
自分は、生まれてからコドモ時代は自然にそういうのがありました。どの家庭でも当たり前のことです。年寄りは死んでいき、墓に入りますし、お盆の頃は先祖が還ってくると教えられました。お墓参りもします。たまに坊さんが自宅に寄っていったりもします。家には仏壇があり、じいさんばーさん、そしてそれ以前の先代の遺影が飾ってあったりしました。
それらはすべて、自然でした。

ですが、今の時代(特に東京)に生きるヒトたちにとっては、仏教、宗教というのは葬式のときに突然現出する感じは否めないでしょう。


キリスト教であれば、もっと生活に宗教が入り込んでいるのだろうな、というイメージはありますね。たとえば日曜学校とか。。

仏教ももっと、生活に入ってきてもいいのではないか、と最近思うのです。
仏教であれば(新興宗教と比べたら)害はない。
そして、仏教は、迷える日本人たちの精神的バックボーンに、なりえるのではないかと。「日本人たち」というのが大げさならば、まず「私」から。

仏教が「入ってくる」といいますか、少なくとも私がコドモだった頃ぐらいまでに仏教を生活に入れるべきではないか、と。なぜなら、日本人は、昨今の新興宗教の不祥事のイメージが先行して、暮らしの中の宗教色をあえて忘却しているような気がするからです。それにより自らの首を絞めている、というか。。バックボーンを自らブチ壊しているわけですね。

戦後、新興宗教が生活に入り込んできたときの急進性、中毒性、暴力性を、庶民は直接的間接的に体験してきているわけですから、宗教自体の存在を忘却しようとする動きも、わからないでもないのです。

新興宗教が資本主義と見事に結びつくと、そうなります。
新興宗教が生活に入り込めば、それは「入り込む」どころの騒ぎではなくて、内側から生活を破壊してゆくわけです。

そして、バックボーンを得たはずの新興宗教の信者が幸せそうに見えるかというと、そうでもない。彼らのあの折伏の際のぎらぎらした(彼らに言わせれば「きらきらした」)目を見ていると決して幸福をつかんでいるようには見えない。

生活の破壊を自ら防ぐためには、自らにも狂気を内包させ、同化してゆく他ないのですね。

自分について

  • 「籠る」

最近、「籠る」ことを自分の「非日常」と考えればいいのではないか、と思うようになってきました。自分は非日常を毛嫌いしてきたわけですが。。 それは、現世の「非日常」(つまり、イベント性)の「型」が気に入らないわけでして。。

「籠る」というと自分はいつも『精神と時の部屋』(byドラゴンボール)を思い出してしまうのですが、そういうイメージですね。つまり、自分が成長する非日常の空間なり時間がほしいのですね。

非日常のイベントの型とは、私が考えるのには「籠る」とは真逆のイメージがあり。。それはたとえれば「解放」「発散」のようなものです。

「籠る」をある程度ファッション化したものが、ひところの座禅ブームなのかな、という気もします。

ですから、「籠る」に固執しなくとも、非日常のイベントにより何か(とおり一辺倒な、スナップ写真レベルの「思い出」以外のもの)を得られればよいのでしょう。
そうすれば、個々の「イベント」が刹那的になり、全く連関を持たないがために、体験してもますます不満足感が募ってゆくような悪循環からは抜け出すことはできそうです。


非日常のイベントにより常に「解放」「発散」を体験してゆけば、自身は「干からびる」かあるいは「消耗する」ようになってゆくのは当然なのです。インプットがないのにも関わらずそういう生活を送っていれば。
消耗してゆく自分にますます嫌悪感を持ち、それが生活の不満足感につながってゆくのです。

せっかくの休みだから。。 と、非日常のイベントに「発散」ばかり求めるのではなくて、「苦痛」ともいえないぐらいの苦痛をちょっとスパイスとして入れて、何かしらの「成長」を実感できるような非日常のイベントにシフトしてゆくと。。 それができればよいのですが。
そうすれば、悪循環からは抜け出すことができるでしょう。


この「悪循環から抜け出す」とは、どうも、輪廻転生から「抜け出す」イメージに近いような気がしているのですが。。 それは素人のタワゴトかもしれませんね。