元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

怒りと、「根源的な闇」 象牙の塔 よりよく生きたい

本来の日記部分

日常を生きていると、「怒り」の感情を刺激するできごとがほぼ毎日発生しますね。
今はそれに、対峙してみる。なぜ、その事象に対して「怒り」の感情が沸きあがってくるのか?
それを回避する、やりすごすにはどうすればよいのか? こんどその事象が襲ってきたらどうするか? などなど。。
そして、それをできうる限り書き出す。

書き出すという行為の理由は、アタマの中でもやっとしている「概念」のようなもの、をキーボード自動筆記により自分の現前に表出させて、アタマに対して再認識させる(フィードバック)ため。
それにより、アタマの中でどろっと、怒りであれば怒りのまま残存している「感情」を鎮める。

そしてもうひとつは、これは怒りに限ったことではありませんが、とにかくアタマのキャパをオーバーさせないために。
思いついたことは、アタマの中で無意識的に醸成させるのではなく、まずアウトプットとして書き出してしまう。
理想は、アタマの中がからっぽになる状態。

先日、夏休みだったのですが、そのときは、本を読んでいた(インプット状態)というのもあるのでしょうが、アウトプット(書き出し)の衝動はそれほど発生しませんでした。

これが、夏休みが終わり、日常生活がリスタートされると、とたんにまた、アタマの中にいろいろな思いがめぐります。外にいるときはメモ帳にさわりだけメモして。。 あとでキーボードで、テキストファイルで書き出す。

さらに、先ほど書きましたが、特に「怒り」の感情を誘発するような事象が発生すれば、アタマの中がそれ一色になってしまうので、その感情を書き出し書き出し。。(いや、「掻き出し」が正しいでしょう)

怒りの感情は、その他のアイディア、イメージまでも奪い去ってしまうことがあります。
ですが、怒りの感情を刺激する出来事は、尽きることはありません。これだけ世の中が、「次世代暴力」に満ち溢れてくるようになってくれば。。


話がそれましたが。。
何度も引用している村上春樹さんのインタビューで、とても好きなフレーズが、「どろっとした情念を取り去ったあとになおも残る根源的な魂の闇みたいなもの」というものです。

自分が、アタマの中をからっぽにしたい理由は、表層的な考え、アイディア、イメージを一時的に取り去ったあとに残る「何か」―ムカシ、それを言語化することができなかったのですが、村上さんの言う「根源的な魂の闇みたいなもの」というコトバの選択は、ものすごく、強烈に腑に落ちるものがありました。
これを、見つめる、とでもいいましょうか。。
まずは、その「闇」の向こうに何があるのかを見極めたい、ということです。

日常生活では、アタマの中に思考が渦巻いていて、その「根源的な闇」は常に見えない。ネオンまたたく都心のようなものですね。


でも、たまに、「闇」が垣間見えることがある。これはふと、やってきます。
でも、その闇の向こうはよくわからない。これは、おそらく夢の中で見ているのだとは思いますが。。


と、いうわけで、最近日記に怒りの書き出しが多くて、自分でも若干自己嫌悪気味だったのですが、最近これほどのボリュームで書き出しが行われているのは(他人事みたいだ。。)何かしらの理由があるのだと思っています。
書き出しのボリュームが増えれば、自然、「怒り」の領域も拡大されるわけでして。。


今は、自分で自分を放っておこうかな、と。

再録・継続

だいぶ以前の号なのですが。。 ルワンダ人からみた日本感、みたいなコラムがありました。

ルワンダでは、まともな教育もなく、まともに職にもつけない。政党に参加すれば小遣いをもらえる。その代わり党に従わなければならない。

教育を受けていないので党の指示どおりに命令されるままに行動してしまう。党の上の人は教育を受けているのでコントロールが容易い。

「あの人の言うことは真実」「あの人は敵」と言われたら完全に鵜呑みにしてしまい、昨日まで仲良くしてきた人たちがいきなり敵になってしまい、殺し合いをする。

教育を受けていないから判断力がない。

みたいな話でした。

日本にひきつけて考えてみると、日本は今、教育の質が低下している、と考えられているのですから、ここで書かれていた「判断力」も低下するということにならないでしょうか。

と、いうことは、「ゆとり教育」とはコントロールが容易い人材を大量に育成するシステムだったのか?

となるとあまりに皮肉ですが。。

それは結果論であって、ゆとり教育を推し進めた政府にそのような意図はなかったのでしょうけど。

一見、偽「個性的」なように見えるが、「大樹」に対しては従順、といったような人材。

戦前は、大日本帝国に忠誠を誓うような洗脳が随所に盛り込まれていたのでしょうけど、戦後の教育はよくも悪くも「自由」というエッセンスが入っているのですから、お上からの教育を授かることにより、お上に従順な人間が作り上げられるとは限らず、メディア・リテラシーもセットでついてきていたはずなのです。

象徴的なのは、原田武夫氏がどこかのコラムで書かれていましたが、「今、大学にタテカンがない」と。「タテカン」自体を知らないヒトもいるでしょうし。

あの悪文が書き連ねている「タテカン」は今思えば懐かしいですが。。

まあ確かに世間でいわれているとおり、ゆとり教育からのゆり戻しはある程度は警戒しなければならないとは思います。けど、親の世代(つまり我々)の民度が上がっているからダイジョウブであると信じたいですし、我々はますますメディア・リテラシーを意識しなければならないと思います。

教育は、若いうちに受動的に受けて完結、ではなくて、オトナになってからもずっと維持管理が必要なのです。極端な例をあげれば、コドモの頃、マジメタイプでメガネで文学少女で成績優秀だった女の子だって、専業主婦になって毎日テレビみてくっちゃべってたらその教育のストックは完全に吐き出されますよ。

(再録おわり)

ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 「キャーキャー」

なぜ、テレビに出ている「だけ」でキャーキャー言われるのか。。
あらためて考えてみると、わからなくなってきたような。。

テレビに出ていてかつ、そのヒトの大ファン、とでもいうのであれば話はわかるのです。

現代の趨勢では、「テレビに出ているのであれば誰であっても話題性は十分」という計算は成り立ちますね。(他人との会話のネタに使える)でもなぜ、テレビに出ている「だけ」でいいのかというのは。。
実はこれは、マジメに考えなければいけないことかもしれません。「キャーキャー」言うということはつまり、対象を上に見ているということですよ。なぜへりくだらなければならないのか。。 そしてなぜ、日本人はテレビに出ている対象に対してへりくだるのが「大好き」なのか。。

これは相当問題ですよね。皆がへりくだってくれるから、誰もがタレントになろうとするわけですし。

これだけ「テレビはつまらない」と言われてきているにもかかわらず。。

人生観、のような、思想の話

  • 「よりよく生きたい」

ふつーのヒトは、誰も「よりよく生きたい」なんて思っていない、というテーゼに立つと。。

誰もが「より楽しく生きたい」とは、思っている。でも、より楽しく生きるために、よりよく生きる方法を考える、という思考に至らない。
それが、いたく不思議に感じてしまうところなのです。

刹那的に楽しく生きるのは勝手なのですが、何か突発的に楽しいことがあると、それが起らない「凪」の時間が非常に苦痛に感じられるようになる、という「リバウンド」を、誰もが知っているはずなのに、なぜ、それを「意識」しないのでしょうか?

自分は刹那的に楽しく生きたい、それが最良、と考えるならば、であれば「凪」の時間はどうする? と、そこまで考えを至らすことこそ「よりよく生きる」ことそのものなのです。

そこから目を背けてはいけない。


また。。いつものグチに戻っていきますが、時間が無限にあるという間違った前提だからこそ、不満足感を抱えながらだらだらと生きてゆけるのでしょう。

楽天三木谷社長は、人生を後悔するという最大のリスクを回避するために、逆に仕事でリスクをとる、という話をしています。

それとも現代人は、「人生を後悔する」というリスクすら織り込み済なのでしょうか?
いや、それは違うと思います。現代人はほとんどのヒトがなんらかの「野望」めいたものを持っています。その野望の実現でもって、人生を後悔するというリスクが回避されるわけです。


ですが。。 私には、たとえば昨日の神宮の花火大会で、クソ暑い中、さらに、大混雑で体感温度、不快指数上がりまくりの中、わざわざ非日常のイベント(=刹那的な楽しみ)を求めてやってくるようなヒトたち。。
カレらの「目」をながめていると、カレらは「人生を後悔するために生きている」ような気がしてならないのですね。

あの暑さと混雑ではモトはとれない、と思ってしまうのですが、一瞬でも刹那的な楽しみを享受するだけで、カレらはモトがとれてしまうのでしょう。

「こうありたい」または反面教師

「守られている」状況だとヒトは死ぬ気になれないものなのでしょうか。
たとえば学者、坊さん、地方公務員などなど。。
まず、なぜ彼らは「守られている」のだ、という考えを持ってしまうのだろうか。。

この現代社会においては、一部の団体なり勢力を社会主義のように保護し、囲ってしまうと、そのままクサっていってしまうのでしょうか?

本来、なぜ「保護」するかといえば、制度的に守られた中で、金銭的な心配をせず思い切り、「世の中の役に立つこと」に打ち込んでくれ、という意味合いですよね。

ですが、保護することによりそのアウトプットの品質が低下する。。
日本では、ムカシからそうだったのでしょうか? それはちょっと、わかりません。

であれば保護せずに、この資本主義社会の荒波に放置しておけ、ということになりますが。。

実際、国立大学とか、そのような感じで国から放擲されつつありますね。それが吉と出るか凶と出るかは、数年経たないとわかりませんが。。

私の母校は大学の名称すら変わってしまったのでほんの少しさびしくはありますが。


政策としては「世の中の役に立つこと」を求めているがために「保護」しているのにも関わらず、カレらが導き出す結論なり、アウトプットなりといったものは、現在、全くといっていいほどこの複雑な現代社会に鋭いメスをいれていない(by探偵ナイトスクープ)し、役にも立っていない。
「救済」していないのです。

別に、世の中を直接的に便利にしてくれとか、そういうことを言っているのではないのです。制度的に守られているのであれば、ジャマが入らない環境の中で死ぬほどアタマ使って、世の中の「真理」みたいのを見つけて、それを世の中にフィードバックしてほしいのです。
「保護する」というのは相当の税金もかかっているわけですから。


ところで。。
なぜ学者/坊さんの類が私の中で信用ならないかというと、「現世の苦しみ」の実感がカレらにはないような気がするからです。(実際はどうか、はわかりません)

現世の、例えば仕事でのストレスを超越するぐらい、学者であれば脂汗をかきながら思想するとか、坊さんであれば「ポーズ」でない、人生を会得するための荒行をしたり、とか。。

そういうことは、守られた檻の中ではゼッタイに行われていないでしょう。なぜならば、現代人の自己節制の能力には、もはや期待できないご時世になってきているからです。


中高年がストレスや借金で自殺する、ということは、ある意味そこまで「荒行」を世の中から仕掛けられているということです。
でもその荒行を糧にして、そこから先の「高み」にのぼることはできない。なぜならば、まず、一庶民にすぎないから、というのもあります。荒行の訓練など受けているはずがない。
それと、その荒行が死ぬまで続く、と思ってしまうんでしょうね。老い先短いにも関わらず、残された老後すべて荒行が続くのであれば、「可能性として」死んでしまうのもアリだろう、と。

中高年の悩みは、本来仏教ですくい取ってあげないといけないはずなのです。
中高年サラリーマンの「駆け込み寺」としての機能がなければいけない。
そして坊さんに「荒行」の疑似体験させてあげればいいのです。


たとえばサラリーマンが、苦しい胸のうち、現世の苦しみを、世俗から離れている坊さんに語ったとしても、金輪際理解することはないでしょう。


ですから、坊さんが世俗のサラリーマンに伝えてほしいのは、過去の賢人の叡智でしょうね。その坊さんの考えなどは、別にいらないのです。
現代社会で世俗から離れることを選択していること自体が「逃避」の意味合いがあります。こと、サラリーマンから見ればそういうふうにとらえられてしまうのは、致し方ないところでしょう。

  • 「見聞を広める」話の蒸し返し

ところでなぜヒトは見聞を広めようとするのでしょうか?

それはもしかしたら、「卒業」するためなのではないか、と、さきほどふと思いついたのでメモしています。

日本人はとかく、「卒業」が好きです。学校だけではなくていろんな行事なり、イベントなり、とにかくさまざまなコトで、一定の成績なり満足感を得て「卒業」の儀式をとりおこなうことで相当のカタルシスがあるのでしょう。

つまり、なぜ見聞を広めようとするかというと、逆説的に、「見聞を広める」という行為を卒業したいから、ということになります。
見聞を広める、というのは端的には海外旅行などを指していますが、どこかでは終わりにしようと考えているのでしょう。たとえば「世界一周したら終わり」とか。。

考え方を変えれば、始めなければ「卒業」もないような気もするし、気に揉むことも悩むこともないのでしょうが。。
周りが何かを始めると始めざるをえない、というところがありますね。

もう少し話が拡がるかもしれません。

  • 家庭のスタイル

いろいろな「家庭」を垣間見ることがあるのですが、それぞれの家庭に「スタイル」のようなものがあります。

そしてそれをカッコいいと思えるかどうか、の判断基準というのは、とにかく、マスメディアからどれだけ遠く離れているか、あるいは、遠く「離れようとしているか」に尽きると思います。

そして、かつ、その家族が他人に迷惑をかけていない。さらに、親孝行をしている。

優先順位が逆かもしれませんね。その家族の信条として「ヒトサマに迷惑をかけない」「親孝行(子供にしてみれば、祖父、祖母)をする」というのが厳然としてあるのであれば、その一家は文句なくカッコいいのかもしれません。
表層的なファッションなどは結局どうでもいいのかもしれない。

死、あるいは宗教に近い話

  • お経の効用

お経を唱えればそれでよい、という教えなのであれば、信心するのは確かに勝手なのですが、実際はまあ、そうではないわけです。(あまりに、当たり前ですが。。)

お経を唱えることで、仮に、ですが、必ず成仏できる、という確証があったとしても、それは現世には何の影響もおよぼさない。

私がよく(我ながら)引き合いにだす、「何をどれだけ食べてもよいダイエット」と似ていますね。。


でも、お経を唱えることによる「快感」は確かにあるようですね。そのへんの効用は、まだ詳しくないのでよくわからないのですが。。
大きな声で発生すること、唱和すること、により、ストレス発散、そして一体感が生まれたりしてそれで脳内物質が盛んに分泌されたりするのでしょう。適当に書いていますが。。

でもまァそれは、現世におけるストレス発散にすぎないのであって、成仏とは何の関係もなくなってきますね。ただそのときが気持ちいい、という。