元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

時間の話(再録) 掃き清める話2

再録・継続

  • また時間の話 お金も絡めて(20070221)

無計画に、「今日は何しよっかな〜」とぼーっと考えたり、無計画にだらだらとお金を使ったり、そういう「スタイル」はホントは時間にもお金にも余裕のある人間だけが選択できる特権なのだと思います。

今の時代、ほとんどの人が「プチ」特権階級になって(資本主義に「させられて」)しまっており、誰でもそういうことができるようになっていますが、それが現代人の慢性的な不満足感の要因になっています。

一般人は、時間も金も計画的に使って、貪欲に「満足感」をゲットしてゆくべきです。そういう自覚を持たないと、ぼーっとしていると「大きなもの」に取り込まれてしまいます。

が、それを「ガツガツしすぎ」と茶化したり、ひきずり降ろそうとする勢力が存在します。

そういう勢力が、政治家やマスコミ業界の人たちに「バカ」だと思われている庶民です。自分はそういう人たちに牛耳られていると思うと悔しさがあります。

お金も時間も、少し考えてみればジュンダクにあるわけではない、ということはすぐにわかります。ですが、ちょっと油断していると、まるでジュンダクにあるかのように思わされてしまいます。

(再録おわり)



抜粋・紹介

禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)

「悟りは「狂う」こと、すなわち通常の意識のレヴェルたる知的レヴェルを超えることだ。悟りはなにか異常なものだ、と前にいったが、悟りにはべつの一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである。これによれば、禅はきわめて通常、きわめて陳腐、まるで羊のごとく柔順で、泥水につかり、世俗の流れにそうて泳ぎ、世間の他の人と少しも変りないことになる。」
「(略)第三層は普通心理学者によって定義される無意識である。喪失した記憶はここに貯えられる。普通にいう心の力が異常にたかまったとき、それがよみがえる、そしてそこに埋蔵されていた記憶−誰もその期間を知らぬ、無始劫来という、それが、絶望的なあるいは偶発的な破局(カタストロフ)の起るとともに表面にもたらされる。しかしこの無意識層は最後の精神層ではなくて、さらに真に深い深いところにわれわれの人格の地盤となるべつの層がある。「集合的無意識」とも「無意識一般」とも称せらるるもの、これがやや仏教の阿頼耶識(アラヤビジュニュアーニュア)の思想すなわち「蔵識」、「無没識」にあたる。(略)「宇宙的無意識」は創造性の原理、神の作業場であり、そこに宇宙の原動力が蔵せられる。あらゆる芸術品、宗教人の生活と向上心、哲学者を動かす研究心−これらいっさいが、すべての創造能力を抱く「宇宙的無意識」の源泉からくるのである。」
(抜粋・紹介おわり)

自分が「掃き清める」という行為に最近興味を持ち、ハマっている理由は、
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20070705
その行為により「無心」に近づけるような気がするからです。
そして、その「掃き清める」機会を与えたもう存在に感謝せよ、と。落ち葉を掃くのであれば、自然に対して。ゴミをポイ捨てする人間にさえも感謝の念を示せ、と。
悪意があろうがなかろうが、地面に物体が落ちれば落ちるほど、掃き清めなければならない「機会」をどんどん与えてもらえる(【重要】マーク)。そして、その機会を得、一心不乱に掃けば掃くほど、「無」に近づくことができる。

まだそこまでの境地には到達していませんが。。


で、実際問題、一心不乱に掃き清めているときに「無」の状態に近づけている「ような気がしている」わけだから、その状態とはナンなのか、をもう少し突き詰めてゆけばよいのだと思います。

突き詰めるためには、一側面としては体験、行動で(つまり、この「掃く」という行為そのものを続けること)もう一側面は、学術的なもの、つまり、読書とか、勉強により。

で、「勉強」であればその「無」を知るためにもっとも有用な手段が今、「禅」なのではないかと考えているところなのです。座禅を組む、という「ファッション」ではなくて、「禅の思想」ですね。

確かにこの本に書かれている「集合的無意識」に導かれているような感触は、あるのです。(こういう話を他人にすると「宗教がかっている」とかいわれちゃうのですが。。 誰もがある一瞬にそういう感じを持つことはあるはずです)


でも、前にも日記に書いたのかもしれないけど、結局「答え」というのは自分で見つけたいのです。
昨日の日記に引用しましたとおり、臨済は無意識の境で何を悟ったのかといえば「仏法などそう大したことではなかった」ということでした。
悟ったときには、その「悟り」にたどりつくまでの手法、手段が「小さくみえる」ということなのでしょうか。

このあたりにヒントはあるはずなのです。