元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ヒトは、自分の感情に素直に生きるべきではない

本来の日記部分

  • 体調

鼻水が、濃い色になってきて。。(キタナい話ですみません)
風邪の兆候。

  • 仕事

サイドビジネス(?)順調。。
精神的に非常に楽です。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • ヒトは、自分の感情に素直に生きるべきではない(【重要】マーク)

ヒトは、自分の感情に素直に生きるべきではないのではないか。ヒトは、特にムキになって快楽原則に従うべきではないのではないか、と。
「ああ、そうなのか」と、ひらめいたのは、ごくごく最近です。

それに近い「何か」、萌芽を感じたのは、ムカシの日記の。。
「我慢が効く」という、自分はガマンが効く人間でホントによかった、という話でしたね。今考えると。


暑くなったら脱ぎ、寒くなったら着る、というのを1日に何度も繰り返すヒトがいて、あれは、耐えられる体感温度の幅が狭いからそうせざるをえないのでしょうけど、あれは、面倒くさいなあ、と。

自分は、確かに、「快」を感じられない体感温度のときもありますが、おおよそ、家を出たときと同じ格好でとおします。なぜなら、脱いだ服を持つのが面倒くさいから。。 というのもありますが、耐えられる体感温度の幅が広いからであって、それは、先天的なものではありません。

訓練というか躾けというか。。 過去の生活習慣の結果、そうなってしまっています。

マァカンタンにいえば「ガマンしろ」と。逆に、「ガマンするな」と育てられたヒトもたくさんいるわけですね。ガマンするなと育てられたヒトには私の行動(暑くとも上着を脱がない)は理解不能なのかもしれません。


ところで、
快楽原則に「従う」というのは、あるがままを受け入れるというわけでは決してなく、「快」が連続する状態、だけを受け入れるような身体になってしまうわけですね。

人間が、もっとも幸せな状態というのは、生活の大部分が「快」でも「不快」でもなくて、たまに「快」があるような、そんな状態である、と思います。

「自分の感情に素直に」生きることができたり、「快」だけを追えるヒトというのは限られたヒト、選ばれたヒトですよね。おそらく、どの時代でも全人口の1000人に1人ぐらいじゃないんでしょうか。

でもそれは、特別に幸せな状態であるともいえない。不幸でもない。「幸せ」のなかのひとつの状態に過ぎないわけです。

1000人のうち999人は、1000人のうちの1人ではないのだから、「快」が連続する生活は、できないのです。できないにも関わらず、「快」が連続する状態だけを受け入れるような身体になってしまっている。。
これは、不幸ですね。ものすごく不幸です。

でも、そうなってしまったのは、そのヒトのせいではないのかもしれない。親であったり周囲であったり教育であったり、そのヒトに無用な(身の程知らずな)「万能感」あるいは「選民意識」を与えてしまったからだと思うのです。


ここまでは、平成を生きる現代人であるからには気付かないといけません。

なぜ、生活の大部分が「快」の状態よりも、生活の大部分が「ふつー」で、たまに「快」があるような状態のほうが幸福なのか。

おおよそ答えは見えましたが、筆がノってきたら続けます。