元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

たまには自画自賛しても。。


ひとり公論 たまには自画自賛しても。。

歳をとればとるほどに、自由になっていっているような気がします。

ムカシより散歩の範囲が拡がっている。ムカシよりも格段にいろんな景色をみている。「景色をみている」とは、たとえば海外にいって「見聞を広めている」というわけではありません。

「景色」とは移り変わればそれでいいのです。たとえば路地裏にも景色は無限大にあります。

歳をとればとるほど、物理的な時間はなくなっているように思えますが、時間の使い方がうまくなってきたということでしょうか。。

あるいは、単に朝を有効に使うようになったから「自由な感じ」が増大しているのか。

自由に使える時間はまったくといっていいほどなくなっているはずなのに、そうは感じない。むしろ自由に時間を使えているような感じがする。



「自由な感じ」といえばやっぱり、ある程度の金銭的余裕ができたのは大きいですね。。というかそれがすべてかもしれない。

カネがないというのは致命的です。カネがないという生活は実は、とても楽しい(楽し「かった」)のですがそれは実は「自由」ではなかった。

カネがないという状況で、実は「一次的な」自由を感じられるのだが実はそれは真の自由ではないという。。


それにしても歳をとればとるほど自由になってゆく(感じがする)とは我ながら自画自賛というか「やるなあ」というか。

たまにはいいでしょう、自画自賛しても。

でも!

結局、カネのない不自由な状態が楽しく、カネがある程度自由になればなるほど、楽しくはなくなってくる、ということを知ってしまったということでもあります。

自由になる、というのはつまり(この日本では)カネから自由になるということです。カネから自由になるほどに楽しくなくなってくる、とはいったいどういうことなのでしょうか?

これを逆に考えれば、僕がカネのない状況を否定的に考えている(真の自由ではない、と)ことが実は間違いで、カネのない不自由な状況が実は真の自由かもしれない。

と考えてゆくと堂々巡りですねえ。。

これをさらに深く考えてゆくのがこれからの僕の課題になりますでしょうか。。