元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

発熱 生活をアソビに 身の丈にあった 「個性的化」

本来の日記部分

  • 体調

昼から、突然の発熱。年度変わりで、いろいろなことが重なったからでしょうか。薬を飲まずにやりすごしました。

歯科の2年にわたる治療も、今日でひと段落。自分にとっては歴史的なことです。などなど、いろいろなことがこの年度末/年度始めに集中しているということです。

抜粋・紹介

この本を読んで腑に落ちたことがあります。
ムカシ、自分が育った田舎では、いわゆる「地域の目」というのは確かにありましたが、それは表層的なものでした。あるいは偶発的、とでもいったらいいのか。。
そもそも「地域の目」などというカッコいい話ではなくて、ムカシはだいたい職住近接で、皆の生活リズムというか、生活時間帯が近いから、いたるところに地域の人が「いた」というだけなのです。
ムカシのような「地域の目」を復活させよう、という考え方自体が間違っているといいますか、その「ゆり戻し」が過剰すぎるのです。ムカシは、地域に人が「いる」だけであってコドモの世界にオトナは入ってこなかったはずなのです。そして、オトナはそもそもコドモの世界に興味がなかったのです。

  • 「個性的化」

これも、この本を読んで感じたことですが。。
自分は、田舎の典型的なガキから、これまた典型的な大学生を経て、少しずつ自分を「個性的化」していったような気がします。つまり、この本に書いてあるとおり、個性的になるというのは努力ですよ。先天的なものではない。先天的なものは「才能」なのです。
「個性的化」する素質はあったのかもしれないしなかったのかもしれないですが、とにかく人は、過剰に個性的であろうとしなければ個性的にはなれない、という、単なる凡人にすぎないという自覚はありました。

おそらく自分の客観化、というか、自分の「リレキ書づくり」というのが、自分のウラテーマだとは思うんですね。それなりにオモシロい経歴をmyリレキ書にプロットしてゆきたい、というか。。
ただ、根は凡人ですから、その経歴というのは「ちょっと」おもしろい以上にはなりえないわけです。たとえば、犯罪とか逮捕とか、自分のリレキ書には介入してくる余地がないのです。

自分について

  • 生活をアソビに

自分が実践しているのは、「生活をアソビに」ということです。とはいっても毎日アソんでるわけではないのですが。。 昨日のストレスコントロールの話の続きで、ストレス解消のための「イベント」をわざわざ切り出さずに、日常に埋め込む、ということです。

ですが、日常にアソビを入れてしまいたくない、イベントはイベントで切り出したい、という勢力が多勢なので、自分とは話があわないわけです。「日常をアソビにしちゃったら海外旅行とかにいけないじゃん!」みたいな。。
現代人は定期的に旅行に行くことが当然、というマスコミ洗脳済の考えをお持ちの方々。。

ところで、「地域」に溶け込むというのは、めったに旅行にはいかないということだと思うのです。先ほど書いた「地域の目を復活させよう」というのは要はムカシの生活に戻りましょうということをいっています。そして、ムカシの人たちはめったなことでは海外旅行にはいけなかったはずです。国内旅行もです。
自分は、ホンキである程度そういう生活に戻ろうとしているわけです。「地域の目を復活させよう」としているけど海外旅行にはいきたい(海外旅行というのはたとえですが、今の生活レベルを維持したいということです)、と考えている人のほうがよっぽど不純なわけです。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 身の丈にあった

「セルフコントロール」とは、身の丈にあった生活をキープする、ということなんですよ。身の程をわきまえよ、と、まさにそのコトバに尽きるわけです。
「身の丈」が伸びるのは、お金を直接の触媒にして、ではないのです。お金は間接的なものです。
人は皆、身の丈を伸ばそうと努力するところに「生きがい」とかを感じるわけですが、その手法は一律であるはずはないのです。でも、一定の法則のようなものはあるのです。

今求められているのは「自発的に」身の丈にあった生活をすること、ではないでしょうか。