元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ディファレンシャル2


2012-05-08 - 【ひとり公論】([新庶民]論)

自分は、人生の折り返し地点を過ぎてからハジけたわけでもなんでもなくて、少しずつ「差異」(ディファレンシャル?)を積み重ねてきただけだと思うんですよね。たとえば、通勤経路で、毎日同じルートを歩かない、たまにはひとつ前の駅から歩く、たまには自転車通勤をする、たまには1時間前に出勤する、などなど。。通勤にたとえればそういうことです。そういう、一見ムダな積み重ね。

それが我ながら花開きつつあるかな、と。。

いつの時代も「ちょっとだけ個性的」というポジションに落ち着き、いつの時代も「ハンパ」、そしていつの時代も突き抜けてるように見えるヒトに憧れ。。
だったのですが、ちょっとした「差異」あるいは差異をつくろうとする努力が積もり積もって、なかなかいいところまできたようです。さて、これからどうするか。。

「なかなかいいところまできた」といいますのは、自分はこの「カタギの」世界の同世代の中では、非常に高い確率で「個性的」といわれる(「揶揄される」?)ようになってきました。事実として。

マジメ人間が、真に「個性的」になれるための術をずーっと、模索してきました。で、ある日ふと気付いて後ろを振り返ったら、それなりに実現はできているみたいだなあ、という感じ。

なぜこんなふうに自画自賛しているのか。。といいますと、ムカシこの日記でずっとキャンペーンを張っていた「横文字職業に対する嫌悪感」というのがあったのですが、いわゆるそういう「横文字職業」と一線を画してきた、という自負があるからです。

これも何度も何度も書いている「言い訳しながら茶髪にするいいオトナ」、つまり、安易に外見から個性化させるという手段に対して「ちょっとそれは違うだろう」と。

「言い訳しながら茶髪にするいいオトナ」と、横文字職業の世界の底辺でくすぶりながら、ある程度年齢を重ねてきて、自分がクリエイティブだと未だに疑っていないようなヒトたちと、ばっちり自分の「反面教師」としてつながるのです。こうはなるまい、と思って生きてきたのが、よかった。

努力する才能がない、と自他ともに認めてきたのですが、それをくつがえそう、と。人生の後半戦から、変わろうとしているわけです。なぜ変わろうとしているか、といえば、必然である、といえなくもないですが、その向こうに輝かしい「晩成」がみえるから。「大器晩成」ということです。

自分はずっとムカシから、「自分は大器晩成型である」と何の根拠もなく公言してきたので、いいかげんそれを実践しなければならないのです。