元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ココロのセマいヒト!シリーズ

本来の日記部分

今日は知人と昼食を食べ、いろいろ話をしてガス抜きしました。
昼食もおいしく、とても良い時間でした。

  • 体調

相変わらず鼻水以外はとてもよいです。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • ココロのセマいヒト!(から逆襲を受ける)

たとえば誰か遅刻してきたとして。。
時間にキビしいヒトが、それを咎めただけで「ココロのセマいヒト!」といわれる可能性は、高そうです。

ここにはいろんなパラメータが入ってきそうですが。。 その、集合する事情の優先度とか、遅刻してきたヒトの性格、常習犯なのか否か、とか。。

前にも書きましたが、プライベートのシーンにおける、待ち合わせの遅刻は、携帯電話の普及後はもうぐだぐだになってきています。

ということは、ビジネスにおいてはどうか?
ビジネスにおいて、数分遅刻するぐらいだったら、ムカシと比べるとほぼ、お咎めなしになってきました。
ムカシ、タイムカードの時代は、1分であっても、遅刻した人間は、半休と同じだけの減給になる、という時代がありました。
(だから、遅刻しそうになったらもう午前中は職場にいかない)

内部会議もそうですね。ちょっと遅れました、ぐらいであれば、最近は特に問題なさそうです。

顧客や取引先がからむと、そうはいかなくなってきますね。ココロがセマいかどうかは関係なく、カネが絡みますから。。

ちょっと話がそれてしまいましたが、そのついでに。。
昨今は、「咎める」というか、他人に「注意する」タイミングが難しいのかもしれないですね。

たとえば、待ち合わせに遅刻する常習犯がいたとして、「いいかげんにしろ」と咎めたとすると、その場はもしかしたら、「内心拍手喝さい」になるかもしれません。
「よくいってくれた」といわれ、「ココロのセマいヒト!」とはいわれないでしょうね。

遅刻をあまりしない、1回目ぐらいのヒトに注意すると「1回ぐらいいいじゃん(ココロのセマいヒト!)」と総スカンを食らうのでしょう。

この脱線から何か、見えてくるものはあるだろうか。。


この「ココロのセマいヒト!」になるかならないかのボーダラインを考えるのは難しそうですが。。 そもそもなぜそんなことに気を遣わなければならないのだろうか(=>「馬鹿らしい!」)ということになってゆきそうですね。

この遅刻の例でいえば、時間にキビしいヒト、自己管理ができるヒトが、遅刻常習犯を注意する役回りに自然になってしまうように思います。

なぜそうなってしまうのかが、わからない。自己管理ができるからといって自己管理ができないヒトたちを矯正する義務は全くないわけで、ムシしてもいいはずなのです。
であるにもかかわらず、「なってない」ヒトたちを矯正するという損な役回りを「自然な流れ」で(これがクセモノ)押し付けられてしまう。。
その、押し付けられた役回りから逃げ出そうとすると、「ココロのセマいヒト!」攻撃が待っている。。

なぜ「なぜそうなってしまうのかが、わからない」のか。。
「その他大勢」のヒトたちは、自己管理をデキるヒトが、デキないヒトを矯正する役回りになるのが、「自然」と考えているからです。その「自然」を説明できないからです。

デキるヒトが、デキないヒトをムシすることが、「自然」ではない。。

私が思うのは、この社会においては、ムシするほうが自然だと思うのです。
良くも悪くも、そういう世相になってきているはず。

そこで、「じゃあアンタらがやればいいじゃないか」(=>「馬鹿らしい!」)と反論すれば「できるヒトがやるべきだ」といわれ、ぐうの音もでない。
それは、懐柔ですよね。しかも、自尊心までうまい具合にくすぐられ。。


結論としては、「ココロのセマいヒト!」攻撃に対しては、「わりーかよ」と開き直るしかないのですね。おそらく、何ら悪いことをしていないわけですから。一部の、真に「ココロのセマいヒト」にとっては都合の悪い行動をしているのかもしれませんが、そういうヒトたちの都合に振り回される必要は全くないのです。

「ココロのセマいヒト!」攻撃は、言い方を替えれば「見損なったよ。。」ということでしょうから、「どうぞ見損なってください」と。

ベタな庶民として、マスコミに洗脳されるのを由として生きるヒトたちに見損なわれたところで、イタくもカユくもない、と思わないと。。
逆に、そういうヒトから距離をおけるのでラッキー、ということです。