元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「負け」犬

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みんななんつーか、異常に「負け」を悔しがるというかね。

一昔まえでいえば、お隣さんが海外旅行に行く、「ナニー!!キーッッッッ!!!なんでウチはいけないの!」となるオバサン。

ご近所のパパが、デカイ会社の課長になった、「ナニー!!(以下省略)」。。
そういうネットワークは異常に網羅されている。つまり、かなり遠くの「ご近所さん」の情報もゲットしてくる。わざわざ、悔しがるために。


今も、基本的に変わっとらんよ。
ネットが発達して、情報過多になって、あそこの家はオトク情報を早くゲットしている、「ナニー!!(以下省略)」となる。


ホントは、その「オトク情報」とやらを早めにゲット「しない」つまり「乗らない」ことがどれほど幸せかってことを、わからない。
そのへんのオバちゃんは死ぬまでわからない。かわいそうに。。


それは勝ち負けではない。という言い方でわからんのだったら、負けは勝ち。

人生、いろいろな局面で勝ち続けるわけにはいかんのだ。だからどっかでポロポロと負けをひろっていかなければならない。
たとえば「オトク情報」がウチにこなかったのであれば、確かにそれはプチ「負け」かもしれないが、そういうプチ負けは積極的にひろってゆかなければならんのだ。

しかも、無感情で拾う。無感情で拾えば、負けは負けではない。ただの「事象」だ。
それが極意。どっかの教えみたいに、負けに対して感謝せよ、でなくともよい。それが理想だけど、負けに対して感謝するというのはかなりハイレベルな人生の対処法だから。

クールに、無表情でいいのよ。


かたくなに負けを拒んでいると、突然交通事故で死んでしまうぞ!
突然身体にがん細胞ができるぞ! 要注意。警告しとく。
プチ負けを拾って行かないと、リカバリ不可能な大負けを喰らうんだ。

阿佐田哲也さんとか平岩外四さんがいってるとおり、八勝七敗、あるいは六分四分でかろうじて勝ってゆけ、九勝六敗は理想(でもできすぎ?)っていうのが、この歳になってすごくよくわかるんだよね。