訓練【長文】
今考えると。。人生の後半戦って、ほぼ「応用編」だと思っていたフシがあります。
35歳ぐらいまではそう思ってました。
人生の最初、子供の頃つまりひよっこの時期は、ドリル。で、前半戦は基礎問題のくり返し。ドリルと基礎問題は、違います。基礎問題=基礎文章題、みたいなものです。(あくまでたとえで)
で、ドリルと基礎問題は前半で完全に終って、後半は応用問題「しかこない」と思ってたわけです。
そしたら。。まず、僕は二重に間違っていました。(重要!)
ひとつは、いつまでたっても、ドリルと基礎問題と応用問題は、同じ割合ぐらいでやってくるということ。すぱっと、ある時期まではドリル、ある時期までは基礎、ある時期からは応用、みたいな、そんな「区切り」は人生ではありえないということ。
もっといってしまえば、もしかしたら僕らは幼少の時期から応用問題をこなしていたのかもしれない。
もうひとつの間違い。ここでいう「なんとか問題」っていうのは、「やってくる」わけじゃないのです。
いや、やってくるのもあるのですが。。やってくるものはいわゆる「引き寄せの法則」云々で説明できそうですが省略。
何が言いたいかというと、問題っていうのは、自分で設定するのだ、ということなのです。
ひとつの例をあげれば、自分で自分に超・応用難問を設定して、それを自分がクリアできれば、自分は飛躍的に成長します。
ところが、分不相応な難問を設定して、それを自分がクリアできないとなると、自分がクサります。自分で難問を設定しておいて自分がクサってしまったらそれは自分の責任。誰のせいでもない。当たり前ですが。
つまりさじ加減もすべて自分次第。というか、「問題」自体を自身に設定しないというもアリ(自分に甘い人たちはみんなそう)。楽して生きたい、楽して儲けたいと思ってる人たちはみんなそうです。が、残念ながらそういう人たちの将来はみえている。
人生というのはいつまでも、ドリル・基礎問題・応用問題が並行してある。
それぞれを柔軟にこなしてゆかなければならないのです
訓練2
前回ちょっとだけ引き寄せの法則云々と書きましたが、僕の超・個人的見解だと(「引き寄せの法則」を最大限活用して)人生における応用問題というのは、ほとんど「やってくる」感じなのですが、それはそう見えているだけで、引き寄せてるような気がしてならないのです。
応用問題ってのは予期できないからこそ応用であって。自分で自分に応用問題を課するのはけっこう難しいだろうと思われます。どうしても自分に甘くなってしまうので。
なんというか。。ふだんドリルや基礎問題を習慣的にやっていない人間に、難しい応用問題がふってくるような気がしてならない。
というか。。ふだんドリルや基礎問題を習慣的にやってる人とやってない人に、同じ問題がふってきたとして。。前者は「基礎問題の延長」ととらえるだろうし後者は超難しい応用問題ととらえる。
そういうことなのです。
そして。それをさらに超える問題がふってきたならば。。前者は歯を食いしばって解いてゆくかもしれませんが、前者は自殺するかもしれない。
よくいわれることですが、その人の人生には、その人が最大限努力して解ける応用問題しかやってこない、と。
でも死んじゃえばうやむやになってしまうのです。若くして死んでしまう人には、最大級の応用問題が早めにきてしまって、死んでいるのかもしれない。
。。あれ?こういうことを書きたかったのではなかったのですが。。
まあとにかく、前回書いたとおりで、人生の後半戦であってもほとんどドリルと基礎問題だということです。応用問題なんてめったにこない。突然どかっとふってくるので、ふだんはないです。
応用問題が「やってこない」からといってふだんからぼけーっとして、毎日問題を解かなくていいのですか?というのが僕の問題提起です。きたるべき時のために毎日毎日毎日、大人になっても、ドリルと基礎問題は解いておかなければならないのでは?
訓練3
最初の論(一昨日)に戻れば、人生の後半戦イコール応用問題、ではないのです。
決してそうではないのだ、ということに、35歳すぎぐらいに気づいてホントによかったと。
そのまま気づかなかったらと思うとゾッとする。
今のほうが、人生においていわゆる「やらされ感」がないです。
意識的に自分に対してドリルと基礎問題を設定できます。自分に対する負荷も自由自在に調整できる(はず)。
35歳ぐらいの飲んだくれのままだったら、僕はまったく、自身にドリルや基礎問題を強いていなかった。
と考えれば「ゾッとする」どころの話ではない。なぜなら、そんな状態で僕は応用問題に立ち向かっていたからです。そのまま(精神的に)死んでしまっていたかもしれない。
今、この時期に、20代後半~35歳ぐらいまでに僕にイヤというほどふってきていた応用問題(当時の)が同じようにふってきたとしても、今の僕にとってはへでもないのでしょう。それほどにドリルと基礎の積み上げは大事。
1日1日が、基礎のくり返し。そして、今日よりも明日、明日よりもあさってのほうが、同じ問題を解いているにしても「精度」が上がってくる。そして、やがて人間性が陶冶され、人間が完成に近づいてゆく。(完成は、しないのですが)
40代は、その微差(昨日と比べた今日の、微妙な成長)をしっかりと認識できる。
それが、歳をとるってすばらしい、と思えるところです。
若い人たちにはたぶんこれはわからない。(プロアスリートとか、とある方面のプロフェッショナルをのぞき)
若い人たちは、鍛錬を怠ると自身が次の日微妙に「低下」していることが、わからない。「若さにまかせて」生きてゆける。
という意味で我々世代は常にチャンスがあるのです。