元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「現場を取る」について

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ゴーマニズム宣言で最近出てくる「べき論だけではダメ」「現場を取る」について、最近たまに考える。

世の中を変えたいと思うのであればたとえば、デモとかって直接行動だからさ、まるで最短距離をいってるように思うが、実はまったく違う。
警察に守られて公道でデモして、赤信号ではおとなしく止まってるようなデモでは、世の中は動かない。200%断言してもいい。

デモで掲げてるプラカードに書いてあるのが「べき論」ね。

デモやってる人たちはべき論を「高く」掲げて自己満足に浸っているだけ。デモそのものが目的化している(彼らは実は、世の中を変えるつもりなんぞ皆目、ない。)というのはずーーっとムカシからいわれてることだし、小林よしのりさんもずーーっとムカシから批判している。

で、実は「現場を取る」のが最短距離なのではないか? と。
それは、正しいような気がする。でも、やってる本人はぜんぜん世の中を変えてる実感はないだろうし。
実際変わらないかもしれない。可能性の問題だ。

よしりん薬害エイズ問題のとき、運動が目的化しはじめた若者(20年ぐらい前?)に対して「オマエらがミドリ十字(だっけ?)に入れ!オマエらが官僚になって中から変えろ!」といってた。

よしりんに対してマンガで世の中批判するだけじゃなくてオマエが政治家とかになれよ、っていう批判はムカシからあった。が、彼は自分のいちばん得意な分野で「現場を取」り、発信しているということだ。
世の中を変えるにはいろいろなアプローチがあるが、たぶん、自分の行動に対して何らかの「メッセージ」をしのばせておかなければいけないのだろうな、と思う。

それは、「センス」なんだろうな、たぶん。周りの多くの人間が共感できるメッセージを込めた「行動」によって世の中はほんの少し変わる。
そしてその「行動」は、自分がもっとも自信のある「手法」で行われなければならない。そうでなければ世の中への訴求は、ない。

そうそう、共感には「熱意」も必要だから。人間は得意な分野に対してしか(たぶん)熱意は持てないから。