元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

インテリと「思想」3

インテリと「思想」3

司馬遼太郎の説を援用すれば、庶民はそもそも思想しない、とのこと。地に足をつけた生活をし、「思想したって食えないじゃん」と言える存在、と規 定しているようです。

ですが、果たしてそうでしょうか?
一億総中流となり、中流(イコール「庶民」)がかつてないほどまでに肥大化した「知識」(「教養」ではない)を持った現在には適用できない考え方 ではないでしょうか。

まず、「地に足をつけた生活」をしている人間が、いない。私の考える「地に足をつけた」は、市井の生活で疑いを持っていない、ということです。
「知識」が疑いをつくりあげる。自分は「市井」でいいのか? と。自分は「庶民」を超えた存在なのではないか?という「買いかぶり」を始めるので す。

ところが、「知識」が「教養」に変換されると、そういった肥大化した自意識も引っこむようで、そこが不思議なところです。


「思想」せずとも疑いなく生きてゆける層、というのは功罪あります。以前私がよく使っていた「身の程を知る」ということです。でも今は誰もが「身 の程」を知りたくないという思いがあるのでしょう。


結局昨日(?)書いたことと一緒の、堂々巡りになってきますが。。
そもそも知識がなければ、地に足のついた生活ができる。それがかつての庶民の定義。つまり、かつての庶民は「知識」をもたない存在である、と言わ れていた。
そして、かつては「知識」はほぼイコールで「教養」に昇華していったが、今は、「知識」どまりのヒトがゼッタイ多数である。
現代社会は、高等教育と「テレビという名の怪物」により、知識はデフォルトとしてついてくる。だが知識が「情報」としてとめどなく流入してくるお かげで、それを「教養」に昇華できない。
今の現代社会で、知識を教養に昇華させるためには、「思想」の素養が必要。そして、思想「する」というやや苦しい行為が必要。「自分で咀嚼し、モ ノにする」ということ。
この「思想」に対しては、結果的に、大量の情報の洪水を流しているマスコミ(マスコミは、「お上」と結託している)が、庶民が思想することに対し てNoを突きつけている。「バカのままでいよ」と。
現代社会においては、マスコミから得る知識だけでは「バカのまま」である。これは、矛盾している。「ふつうにおいしい」飲食店が良い評価ではない のごとく。
知識が教養に昇華せず残存すると、発酵し(つまり、腐る)、自意識が肥大化してゆく。
自意識が肥大化してゆくと、自分は庶民ではないと思い始める。

今の日本人がとどまってしまっているのは、ここです。
まず、知識があるイコール教養がある、と自己評価しているということ。ここが悲劇の発端。
知識がある、だけでは全く「選民」ではないのですが。。情報の洪水には、今の世界に生きるヒトたちの「選民意識」にスイッチを入れる「麻薬」がと ころどころ忍ばせてあります。(【重要】マーク)

選民意識にかられている状態は、ぬるま湯の地獄でしょうね。
そして、この状態で、「思想するとその状態から抜けられますよ」とアドバイスを受けたところで聞く耳もたない。
選民意識にかられながら、流行から逃れることすらできない。つまり、ココロの中では「選民」のはずなのに、やることは横並び。突き抜けることがで きない。突き抜ける術すら知らない。


結論としては、自身に対して「このままでいいのか、よくないのか」の最終決断を迫るべきでしょうね。
それは相当な苦痛を伴う行為ですが。。


もともとは相当楽観的でいたのですが。。つまり、知識を持てば、それを教養に変換したいと衝動が必ず起こるはず、と。そしてヒトは、教養に変換す る手段を模索する中で必ず「思想」にいきつくはずだ、と。そして思想の先(あるいは「横超」?)には宗教(「新興シューキョウ」ではない)が見え てくる、と。

でも最近は、自意識が肥大すると、知識を教養に変換したくなるという衝動は消滅するのだなあ、と、周りを見ていて再認識する次第であります。
哀れな感じがしますが、まさかそういうヒトって、ヒトの話を聞かないクセにヒトに思想的援助を求めているんじゃないでしょうね。もしそういう考え を持っているのであれば、そういう図々しい考えも、肥大化した自意識から発生するのでしょう。