元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

四畳半に住んでフェラーリを乗り回すということ

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暮らしの手帖で読んだハナシ。
確か(うろおぼえだけど)リオデジャネイロは危険か、そうでないかというハナシで。。

リオのカネ持ちは、運転手付の高級車をこれみよがしに乗り回している割には、貧民街の住民からの襲撃を常に恐れ、目的地から目的地まですべて車。道を歩かないそうだ。

だったら高級車乗り回さなきゃいいのに。。って思ったんだけど、そうもいかないのだろうな。
発展途上国のカネ持ち、成り上がりは、高級車に「乗らなきゃならない」のだ。


でもね、高度資本主義社会におけるオイラたちは。。カネ持ちになったって別にこれみよがしに高級車を乗り回さなくともよいはずだ。
そのあたりが「余裕」というものだろう。

オイラ的には今後、そのあたりを探ればいいのだ。つまり、自分はカネ持ちなんだ、自分はスゴいのだということを世の中に「これみよがしに」誇示しなくともよいような自分になるということ。
「これみよがしに」をやっているうちは決してスゴくはないのだから。

そして、カネ持ちが必ずしも高級車に乗らなくともよいのと同じように、ふつうの勤め人が四畳半風呂なしに住んでフェラーリを乗り回す自由も日本(特に東京)にはある。
だから日本という国は豊かだといえるのだ。

でも、わざわざ四畳半に住んでフェラーリに乗ることによって「これみよがし」をやっているうちは。。
いや、それを否定はしないのだが、それは、次のステップに進むまでの過程だよね? とはいっておきたい。一生それじゃあ、ねえ。。