元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

情報鎖国と「死のニュース」

ameblo.jp

ヒトが死ぬ、ということは、洋の東西を問わず、重大なことです。

ですから、昨今、衛星から世界中の情報が配信されるのであれば、とある事件で死人が何人だったかを基準にして、死人が多かったニュースソースから順に配信してゆけばよいのです。

そうすれば、上位は常にどこかの地域紛争だったり戦争だったり暴動だったりテロだったりするでしょう。
それで我々は世界情勢をつぶさに知ることができるでしょう。

日本の都心のど真ん中で、狂った若者がナイフで6人殺した、というニュースも、たまたまそのとき世界中で暴動とかがなければ、上位で配信されることでしょう。

もちろんそんな、誰かが死んだニュースばかりでは憂鬱になってしまいますので、うれしいニュースも、何らかの基準を決めて、世界中から集まった喜ばしい情報の中からセレクトして配信してくれればよい。
そこの選択基準にコマーシャリズムが入り込んでいなければ、それでいいのです。
うれしいニュースは「死のニュース」でうんざりした後に流せばよい。そうすれば「世の中まだまだ捨てたもんじゃない」と思えるかもしれません。
僕は、子持ちですので、どこかの国の赤ちゃんが、昨日立ちました! というニュースだけで満足です。その映像からパワーをもらえます。小さいコドモには生命力を感じることができます。
そういうニュースは配信優先順位は低いでしょうが。。

ヘンなお涙頂戴にならない、どこかの国のコドモが、重病から立ち直りました、みたいなドキュメンタリーでもいいですね。それが病院とか何かの宣伝でないのであれば。


ヒトが死ぬというのはそれだけで、良くも悪くもニュース性があります。楽しいニュースよりも。
ヒトが死ぬということを理解するのは大事です。
そして、ヒトがなぜ殺されるのか、を考えることも。

日本人はもっと、世界中でヒトが続々と死んでいる(あるいは、殺されている、餓死している)ことを認識すべきです。
これだけ書いていると、なんだかアヤしい扇動家や市民運動家と同じ結論になってしまいますが。。
世界に公平に目を向けるべきです。欧米のフィルタを通してはいけない。たとえばイラクでは米軍が正義である、みたいなことをもう我々は刷り込まれかけていますし、欧米のフィルタを通してみていたときは、チベット問題はほぼ黙殺されていました。

我々がチベットに目を向けるようになったのは単に欧米の「フィルタリング」が変わったからです。具体的には、米と中国のパワーバランスに若干の変化があったからで、我々が主体的にチベットに目を向けたからではない。

世界に目を向けよ! とかグローバリゼーションがどうのこうのとか、環境問題とか、そういうことについてアツくかたり、庶民をアヤしい方向へ導こうとするヒトたちも結局、欧米のフィルタを通した「世界」しかみていない。だから、信用ならないのです。