元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

キーワードは「甘ったれ」

20070827 キーワードは「甘ったれ」(【重要】マーク)

突き詰めてゆけば、自分がキライな人種は「甘ったれ」ですね。世代は関係なく。

なぜ世の中はこれほどまでに、「オトナの甘ったれ」になってしまったのか。。 呆れるほどに。

オトナの甘ったれはゼッタイに、下の世代に対して良いお手本にはなりません。もちろん、「あ、オトナになっても甘ったれちゃってもいいんだ」と、マネはされますが。。

そうしてこういう風潮になってしまったからには、その悪しき風潮は引き継がれていってしまいます。残念ながら。。

自分は、というか、自分らの世代は、もっと上の世代から「甘ったれんな」と何度も何度も言われたような気がします。ですが、今の若い世代はそれを言われない。。 ヘンに「甘え」を尊重される。

問題は、その「オトナの甘ったれ」がどこから始まったのか、ですが。。

自分らの世代(団塊ジュニアの前)から、確かに萌芽はみられていたように思います。

ですが、それが爆発的に広まったのは、団塊ジュニア(第二次ベビーブーム世代)以降です。

つまり、親が戦後世代に切り替わってから。

我々世代は、オトナの甘ったれが跋扈し始めた直上の世代にあたるわけですが、一部のヒトたちはその悪い影響をモロに受けました。それは、もっと問題なのです。

下の世代がどんどん空けた風穴に対して、「下の世代はなっとらん」と不満を表明しながらも内心はホントに羨ましく、我々の世代はどんどん「いちぬけた」してゆきました。つまり、「なっとらん」世代に迎合し、自分も「なっとらん」人間に転向したのです。

ひとつの典型的なたとえが、何度も使っていますが、「いいオトナが、言い訳しながら茶髪にする」でした。

我々世代でも髪の毛を染めたビジネスマンはいました。ですが、それは、「パイオニア」だったのです。希少価値であり、彼らには(おそらく)ポリシーがあったのでしょう。下の世代が風穴を開ける前です。

下の世代がゆとり教育やら何やらで、どんどんあれも「いーじゃん」これも「いーじゃん」やりたいことやれば「いーじゃん」「楽しければいーじゃん」「学校いかなくてもいーじゃん」と、オトナが寛容になったのをいいことに、ある意味世の中を変えはじめました。

そのひとつに、「オトナで茶髪」というのがあり、それに対してその上の世代が「あ、いいんだ」と迎合したのです。一応、「ワカゲのイタリで」と最初は言い訳しながら。

先日まで流行っていた「給食費未納問題」も、同じです。あれは、我々世代が突きつけられている「課題」です。下の世代に精神的に汚染されてしまった「いいオトナ」の愚行の典型。

我々が「べつにいーじゃん」を気取っても、サマにならないのです。

何が問題かというと、我々世代が、下の世代に、精神的に「従属」してしまっている。

今、我々が自由にやらせてもらっているのは、我々ではなく下の世代が「空けてくれた」風穴のおかげである、と、うっすら引け目を感じている。

同じように、全共闘だのなんだのと、わかりやすい形で世の中に対して反抗した団塊の世代に対しても、我々は「何も行動を起こしていない」という引け目がありました。

上下どちらの世代に対しても引け目を感じている我々とはいったいなんなのか? と、私個人は強い憤りを感じているのです。

私は上下世代に引け目など全く感じておりませんが。。

上の世代も下の世代も、日本を悪くした張本人、真犯人だと思っていますからね。

団塊の世代は結局何も変えることができませんでしたし、今ではムカシの思い出を安い飲み屋で語っているだけです。「オレも機動隊に石を投げた」と。石を投げて、で、どうしたんですか?

そして、我々の下の世代が、日本を変えた。「反抗」とはまた別な手段(「いーじゃん」)で。。

そして我々世代は、以前も書いたとおり、第一次ベビーブームで数だけは多い上の世代の老後を、税金という形で支えなければならないのです。なぜなら、我々の下の世代は、「勤勉」「勤労」の意識が少なくなってきているために、税金を生み出せないのです。

これも、強い憤りを感じるところです。団塊の世代はその責任として、団塊ジュニアに老後を養ってもらうべきであるにも関わらず、実際は、働き盛りである直上の我々の世代が支えることになる。

そして、我々の世代の老後は、年金が出ないかもしれない、と脅されている。

年金が出なくなるのは、好き勝手やり始めた我々の下の世代からであるべきでしょう。

下の世代のフォローがないままボロ雑巾のように定年まで上の世代を支えるため、この国を支えるために働かされ、そして老後は保証は「ないかもしれません」と最初から釘を刺されている。。

歴史上、もっとも陰湿な仕打ちを受けている(これから受ける)世代なのではなかろうか、と思いますね。

すべてのことを「自己責任」といわれ。

しかも、これからは世界的な有事もあるでしょうし。。

自分たちの上下の世代は、現代史的にいろいろなキーワードを生み出してきましたが、我々の世代にはおそらくそれがない。それも、引け目を感じてしまう原因なのです。

私も、つい最近まで感じていました。

自分たちは、これから、何かを生み出せないのだろうか、と思います。

甘ったれのオトナにならず、これからの世代(もっともっと下の世代)にビシっとした規範を残せないのだろうか、と。

我々の直下の世代は、もう「教育」は終わっているので、もう甘ったれのオトナとして生きてゆく他ない。ですから、せめてその下の世代にはそうならないでほしい。

ということは、甘ったれのオトナが住みやすい世の中を変えていかなければならない。そうでないと、すぐにこの精神的公害社会に汚染されてしまう。。

「規範」といっても、押し付けがましい「教え」をするわけでもありません。自分たちの世代の生き方のほうが、「ビシっと」していて、よさげで、カッコいいのかもしれない、ということを背中で見せてあげればそれでよいのです。

カッコいい生き方、とは、自己責任を伴う真の個性を自在に発揮する、ということです。

それが我々の世代にできるか。。

* どこまでもどこまでも「世の中が生きにくくなったから」

なぜ、我々の直下の世代からは、「思春期」の衝動に対してオトナが寛容になってきたのか?

なぜ、我々の直下の世代から、「思春期」に、理解のあるオトナが傍らに寄り添って、「話を聞いてあげる」必要性が生じてきたのか?

我々世代まではそのような感覚は、全くないといってよいです。「思春期」にはオトナは反抗するものであって、ジャマな存在でした。オトナに話を聞いてほしいなどとはこれっぽっちも考えていませんでした。「話」は友人どうしで完結するものだったのです。

世代間の精神的拠り所の相違は、ここに端的に現れているかもしれません。

いつの世代も、思春期というのは確かにアブナいものです。

ですが、我々の世代は、オトナが介入せずとも、ほおっておかれても、自分で、あるいは友人同士で、葛藤なり衝動なりを抑えることができ、カンタンにリストカットすることも不登校になることも、親を殺すこともなく、援助交際をすることもなく、自分たちで解決して、今に至っています。

(不毛な反論はイヤなので、一部そうでないヒトたちもいた、ということは付け加えておきます)

そういうリストカットだのなんだのというのは、親やオトナに「かまってほしいから」ですよね。

我々世代は別にかまってほしくはなかった。真にほうっておいてほしかった。

ここで大事になってくるのは、我々の世代まではその親がしっかりしていて、直下からは親がだらしなくなったか、というと、そうではない。

ただ確かにいえるのは、我々の直下の世代の親は、コドモとのコミュニケーションをしっかりととるようになってきました。これが元凶なのですよね。コミュニケーションという名目で「おもねった」のです。

コドモはコドモなのですから、対等に扱う必要はまったくないのです。

親がコドモに接近してきたにもかかわらず、コドモはさらに、親に「かまってほしい」と願い、「ヘンな言動」を繰り返す。。

はっきり言わせてもらえば、オトナはそんなにヒマじゃないのではないですか?

納税し、国民総生産を維持するために、働かなければならないのではないですか?

コドモへのコミュニケーションの前に、親としての規範を示す必要があるのでしょう。それがなくなってきているから一連の企業の不祥事が起きているのでしょうし。

ですから、団塊の世代とその下の世代は、実は「やることなすこと失敗している」ともいえるのではないですか?

そしてとのとばっちりを我々がすべてかぶる。

なぜ、すべてを「時代」のせいにするのか。

ただ単に下の世代のほうが、「甘ったれ」なだけではないですか。オトナが四六時中寄り添っていないと生きてゆけなくなってきているという。。

ここでひとつの仮説を立てる必要があります。

ここまで書いてくれば、我々の世代が実はもっとも優秀なのではないか? というのは自明ではないでしょうか。

戦後、団塊の世代は戦後体制に「プチ」歯向かい、ちょっと暴力的なものが残っていましたが、我々の世代はそれが消えた。悪く言えば「従順」にされたのでしょうが、これは、高度資本主義社会に高度に適応した、ともいえます。

そして、我々の下の世代は、「従順」から脱却したわけですね。「従順」から脱却するということは、優秀ではないということでしょう? 違いますか?

彼らが掲げている「従順」に反旗を翻すための「個性」というのはすべてニセモノであるということははっきりしてきました。

そして彼らには我々ほどの実務能力はない。つまり、税金を納められない。彼らの世代の中での格差ははっきりしている。我々の世代には、世代の中での格差は、「奇跡的に」少ない。

しいてあげれば、我々の世代には「個性」は足りていませんが、偽個性をひけらかすよりはよっぽどよいです。

とにもかくにもまず、税金を納める能力がある、ということ。ということは、勤労の精神が残っているということ。

また、上に書いたように、我々の世代は、モノゴト、内面的な葛藤、衝動を、独りで、あるいは世代内で解決することができました。我々は「甘ったれ」でない最後の世代なのです。

これこそが、我々の世代が優秀であるという決定的な証左なのです。(一部の、下の世代に迎合したヒトたちをのぞいて)

団塊ジュニアからは、日本人は人間として退化が始まっているのです。そして、「ゆとり教育」と偽「個性の教育」が、それを決定的に後押ししてしまったのです。

自分たちの世代、つまり、現代史的に何の足跡もまだ残していない我々こそが、実はもっとも優秀であるということを証明してゆくのが自分のライフワークのような気がしています。これは大げさではなくて、ホンキで考えていることです。

下の世代に引きずられてしまってはダメだ。