象牙の塔
なぜ学者/坊さんの類が私の中で信用ならないかというと、「現世の苦しみ」の実感がカレらにはないような気がするからです。(実際はどうか、はわ かりません)
現世の、例えば仕事でのストレスを超越するぐらい、学者であれば脂汗をかきながら思想するとか、坊さんであれば「ポーズ」でない、人生を会得する ための荒行をしたり、とか。。
そういうことは、守られた檻の中ではゼッタイに行われていないでしょう。なぜならば、現代人の自己節制の能力には、もはや期待できないご時世に なってきているからです。
中高年がストレスや借金で自殺する、ということは、ある意味そこまで「荒行」を世の中から仕掛けられているということです。
でもその荒行を糧にして、そこから先の「高み」にのぼることはできない。なぜならば、まず、一庶民にすぎないから、というのもあります。荒行の訓 練など受けているはずがない。
それと、その荒行が死ぬまで続く、と思ってしまうんでしょうね。老い先短いにも関わらず、残された老後すべて荒行が続くのであれば、「可能性とし て」死んでしまうのもアリだろう、と。
中高年の悩みは、本来仏教ですくい取ってあげないといけないはずなのです。
中高年サラリーマンの「駆け込み寺」としての機能がなければいけない。
そして坊さんに「荒行」の疑似体験させてあげればいいのです。
たとえばサラリーマンが、苦しい胸のうち、現世の苦しみを、世俗から離れている坊さんに語ったとしても、金輪際理解することはないでしょう。
ですから、坊さんが世俗のサラリーマンに伝えてほしいのは、過去の賢人の叡智でしょうね。その坊さんの考えなどは、別にいらないのです。
現代社会で世俗から離れることを選択していること自体が「逃避」の意味合いがあります。こと、サラリーマンから見ればそういうふうにとらえられて しまうのは、致し方ないところでしょう。