元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

閑話休題。(オリンピック) ※長文


[再録]閑話休題。(オリンピック) ※長文|(改題)ひとり公論

北京のころ
ホント、アングロサクソンのルール改正って死ぬほどキライ。


日常でテレビを見ないしYAHOO!とかのヘッドラインニュースもチェックしないので、いつものように今回のオリンピックは、ほとんど情報が入ってこなかった。

とはいっても、この国でふつーに生きていれば、情報鎖国をしたところで、他人のウワサ話が耳に飛び込んできたり、街を歩いていたらオーロラビジョンで中継されていたり、取引先と時事ネタでハナシを合わせなくちゃならなかったり、
そんなこんなで、結果のおおよそのところは把握している。

 
マスコミから飛び込んでくる情報の洪水(これは、「濁流」と呼ぶにふさわしい)に対しては、そんなレベルでなぞっとけばいいと思っている。
それがたとえオリンピックであっても、だ。

オリンピックは生中継を観て臨場感を共有しないとまったく意味がないし、ふつーに忙しく生きてりゃ主要競技のほとんどは生で観れるわけもなし。

「たかが」オリンピックのために自分の生活サイクルを曲げるのも、ねえ。。

 
そんな僕でも、昨日の野球の日本-韓国戦は、もし休日だったら食い入るように見ていただろう。
(野球は僕にとっては特別なのだ なぜなら、小さいころから僕の田舎では、やるのも観るのも野球ぐらいしか娯楽がなかったから)

今でも記憶に残っている(後悔している)のは、2001年のワールドシリーズダイヤモンドバックスヤンキースを下したときの第七戦。
カート・シリングランディ・ジョンソンの二本柱で(二本のみの巨大な柱)、まるで日本の高校野球のようにメジャーリーガーが連投連投。第六戦まで3勝3敗のタイ。第七戦は、ゼッタイに野球史上に残る激闘になる予感はあった。(実際、そうなった)

でもあのときはたぶん月曜で、ふつーに出勤した。試合は、日本時間の昼間だった。
あのときは僕の仕事人生で最大の葛藤だった。。(ズル休みしようか、しまいか)

結局、(僕にとっての)歴史的名勝負を「たかが」仕事により見逃した。
もちろん、仕事の合間にWEBの速報をちらちら見てたけど、WEBで速報を見たところで何ら臨場感はない。

思えばあればケチのつきはじめだったのか。。

 
遠い国でオリンピックをやるときは、メインの競技が夜中に行われ、朝のスポーツニュースで結果を知ることになる。
それがイヤで、わざわざ目覚ましを3時にセットして、起きてテレビを見たりしてたけど。。

なんか馬鹿らしいな、と。
なんでオイラの生活リズムを崩してまで、何ら現実味もない、遠い国で行われているスポーツ競技をテレビ観戦せにゃならんのか?と。

オリンピックってそんなに特別か? と。。

そう思ってしまったとき、なんか自分が変わったな、と。そういう瞬間は、あった。
でもね、それは僕がヒヌくれてしまったのではなくて、間違いなくこれは「常識的観点」に戻っただけなんだよ。

そしてそのシフトチェンジは、僕にとってとてもよいことだったと思う。

 
 
僕はここ数年来、オリンピックだけでなく、スポーツという存在すべてに疑問を持っている。その理由は、思いついたときに日記とかに書き出しているけれども。。

スポーツそのものもそうなんだけど、スポーツマンという存在のウサンクサさに辟易するようになった、というのもある。
高校野球の、高野連のウサンクサさとか、大学ラグビー部で女性への暴行事件が多いとか、相撲において外国人力士を受け入れながら彼らをスケープ・ゴートにしているとか。。
まさに「枚挙にいとまがない」。

相当前から、薄々気付いていたのだけれど、やっと今になってスポーツと距離をおくことができている。

 
もともと身体を動かすことは好きだったけど、今は継続的に運動はしていない。
テレビでスポーツウォッチャーになるのもやめた。スポーツニュースをWEBでチェックするのもやめた。

 
僕がスポーツという存在に疑問をもつようになった、おそらく最大の理由は、「ルール改正」。

国際競技で日本人が活躍すると、白人の都合のいいようにルールが改正される、ということが、何度も何度もあった。
ノルディックコンバインドしかり、ノルディックスキージャンプしかり、水泳の背泳ぎ(バサロ禁止)しかり。。

そして、アテネで日本が金をとった体操は、これみよがしにルールが改正された(と、聞いている)。

4年後は、北島選手が活躍した平泳ぎで、背の高い選手が有利なようにルールが改正されるかもしれないよね。

   
これは、日本が直接関係しているのではないのかもしれないけど、
野球とかソフトボールは、世界的に普及していないという理由で、次回からオリンピック競技ではなくなるという。(だったらテコンドーはどうなんだよ)

バレーボールはだいぶ以前に、旧来のルールを忘れてしまうぐらいルールが変わってしまった。

 
日本が標的にされてルールが改正されると考えるのは、被害妄想だという意見もある。
でもね、数多あるスポーツの国際競技の中で、日本人(要は、有色人種)が活躍した後にルールが変わったケースがある(そして、そのルール改正により日本選手が活躍できなくなる)というのは、少ないのかもしれないけど、事実だ。

そもそもそれを被害妄想であると批判する勢力が存在するところからして、日本人の自虐史観と通底するものがある。
日本にとって不利益だと思われることがあったら、庶民は「オトナげなく」ぎゃーぎゃー騒ぎ立てればよろしい。別にそれは右翼的思想でもなんでもない。健全な庶民感情だ。

 
かつて日本のお家芸といわれた柔道は、「国際競技」に進化し、今や日本がそれに合わす必要がある。

なんでそんな迎合をせにゃあかんの?
柔道において日本がメダルを独占できなくなり、白人だの別な国がノしてきたときに日本の都合のいいように国際ルールを変えりゃよかったんだ。

でも、「国際」社会においては、政治だろうがスポーツだろうが、日本はそういうゴリ押しができない。それが、もどかしい。

ゴリ押しして悪いか?
世界はそういうパワーバランスで決まってゆくんだ。

 
どなたかのブログに詳しく書かれていたけど、国際競技の花形種目の開催時刻は、そのパワーバランスが決める。
それって、ウサンクサくない? ふつーに考えれば、そう思うよね。

   
僕が僕なりに出した結論は、オリンピックは相当、ウサンクサい。アマチュアリズムを未だ継承しているフリをしてるところからして、相当アヤしい。
オリンピックのアマチュアリズムを未だ惰性で信じている日本人も、なんだかなーと思ってしまう。
 
その、ウサンクサいオリンピックの中継を、能動的に観る必要はない。それは、自ら不快になりにいくようなもんだ。

そんなカタクルシいこと言わずに楽しめばいいだろーが! とかいわれちゃいそうだけどね。
僕個人はもはや楽しめなくなっちゃったんだから、しょーがない。

オリンピックになると全体主義的になってしまう風潮、空気そのものを、オトナになってしまってから特にアヤしいと感じている。


  
ところで。
僕は、仕事においては異常なぐらいTodoを忘れないということを前に書いたけど、それと同じように、上述した「ルール改正」も、僕は忘れない。いつまでも根に持つ。

日本人はもっと根に持つべきだ。水に流してはならない。いや、「水に流す必要はどこにもない」のだ。

「根に持つ」というコトバ自体がすごくネガティブなので、もっと別なコトバはないのかな。。

 
なぜいつまでも忘れないか、というと、そのようなルール改正がおこなわれる度、僕は、まるで自分のことのように怒りを感じてきたからだ。

僕自身が、世界から「イエロージャップめ!」と、嘲笑されたような気がしたのだ。(あのころはスポーツに入れ込んでたからなあ)

自分のこととして感じた怒りだから、忘れない。

 
自分のこととして考えようが、他人事として考えようが、それはヒトの自由だ。
別にスポーツに入れ込んでないヒトにとっては、スポーツの国際競技のルール改正などどうでもよいことなのだろう。
だから、忘れてしまう。それはそれで、よい。

 
でもね、かつて僕と同じように、自分のことのように「怒り」を感じたヒトたちがたくさんいたはずなのだ。感じたヒトたちはその怒りを忘れるべきではないと思う。

怒りを忘れなければ、自然、まずは「観ない」という方向に向かうはずだ。

 
スポーツだからこそ根に持たず、水に流すのが「スポーツマンシップ」だなんて、思ってないか? だとすればそれは、いいように国民感情というか、性質を利用されている。
「洗脳」されているといってもいいぐらいだ。

スポーツの国際競技の舞台というのは、もともと平等にはできていないし、アスリート自身がスポーツマンシップを遵守する気もない昨今、庶民がスポーツマンシップを気にしても仕方ない(馬鹿らしい)ではないか。

 
スポーツのみならず、忘れてはいけないことはたくさんある。