元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

長文:「富の泉」演説(架空の)


長文:「富の泉」演説(架空の) - 元祖【ひとり公論】

自分の妄想をうまくテキストにひろえました。めったにないことです。乱文であることご容赦願います。

「富の泉」演説

Q.自分の内部に「富の泉」がある、とは? そこでいう「富」とは何か? 「泉」とは何か?

物体ではありませんが自分の内側からこんこんと湧いてくる「富」によって、外側から、「幸福感」なり、「お金様」なり、お金様にひもづく「モノ」なりが引き寄せられてくるということです。

あたりまえのことですが自分の内部から直接的にお金様やモノが湧いてくるわけではありません。

その「富」を媒介にして、強く引きつけることができるのですから、まず、誰もが自身の中に「富の泉」を持っているということから認めて意識しなければなりません。

A.もっと具体的に。

具体的に述べるのは難しいかもしれません。意識下の問題になってきます。

「富の泉」に対して現実世界のお金様やモノが引きつけられてくるその仲介をするのが「イメージ」であり、イメージは人間はある程度具体化できます。

ところで、人間が内部の「富の泉」を持っているとはいっても本当に泉が湧いているわけではなく、それもイメージです。

ほんわかした、幸福感に包まれた「富」が自分の中からこんこんと、永遠に湧いてきているというイメージを持つこと。

私のいっている「私は、富の泉です」というのはある意味では正しくで、自分そのものが富の泉という存在なのですね。

「自分」というものがあってその内部に「富の泉」という装置を有しているわけではありません。もっと不可分なものです。

モノなりが引きつけられる前に、意識ではイメージとして具現化されているのです。それは「予言」に近いものですが、それを「意識」と「意識下」で連携してやっている。

原因に対して結果がある。原因は「意識」と「意識下」の連携プレイでつくっている。意識下の「富の泉」から湧き出た「想念」(? イメージされる前の具現化されていない「念」)に対して意識ではイメージをする。それは、寝ている間かもしれないしぼけーっとしているときかもしれませんが、ほとんどのケースでは本人は、そのイメージ化のプロセスが行われていることに気付いていません。

世間一般でいわれる「引き寄せの法則」というのは、それをコントロールしよう、「意識下」と「意識」の連携を自分のところに取り戻そう、という試みです。

いえ、ちょっと違うかもしれませんね。「取り戻す」というのはだいぶ物騒な物言いで。。

「意識下」とはうまーく連携してゆかないと、ひどい目に遭います。

自身が、瞑想などをしながら「富の泉」にはたらきかけて、自分なりの幸福のイメージが具現化しやすくする。

ここが、非常に難しいところかつポイントなのですが、自分が勝手に幸福のイメージをつくったところでそれは実現されそうにありません。自分のイメージが「富の泉」と共鳴(シンクロ)しなければならないためです。たまたま、万にひとつぐらいは、自分のイメージと富の泉がシンクロすることはあるでしょう。ですがそれはあくまでたまたまです。

その、自分の中にある(いや違う、「自分そのもの」である)富の泉にうま〜くはたらきかけて、自分の理想型のイメージを「意識」に具現化される、そのプロセスをなんとかして確立しよう、というのが「引き寄せの法則」なのです。

また、重要なことをいい忘れていましたが、富の泉というのは自分そのものなのですから、それが「不幸の泉」にも往々にしてなりうるのです。

不幸の泉がこんこんと湧いてくるのは怖いですよね。

ですからまず、自分の中にある(自分そのものである)「泉」は、「富」が湧いてくる泉にしなければならない。

あれ? ということは、ですよ。

そもそも、「富の泉」にはたらきかけるとかそういうテクニックではないですね。自分という「泉」を「富」ばかりが湧いてくるような泉にしてあげれば、それでいいのですね。

一般的にいわれるのは「ポジティブ・シンキング」によりある程度自身を「富の泉」化することはできるようです。

でも、もう少しそこから先が必要で、そこから先のテクニックが「引き寄せの法則」なのでしょう。