元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

蓮沼門三からの伝言

[引用]蓮沼門三からの伝言

以下、僕にとってはかなり難しく。。

自己満足も、ある程度までは許容されるべきですが、どこかで次のステージに進まなければならないのでしょうね。

(以下すべて引用)

 

自分を強い人間と思いこんでいたのでは、とうてい自分もまた人をも救うことができない。                   *****

◇ある富豪のAさんと貧乏人Bさんのお話。

 

 Aさんは若いころから遮二無二働いて、商売で成功し、

 富と名誉を手にして、億万長者になっていました。

 以前から心のより所にしていたある教えに導かれて、

 贅沢(ぜいたく)をするのは良くないと悟ったのであります。

 

 あるとき、Aさんは所用で京都に行くことになりました。

 列車は1等、2等、3等にわかれていましたが、

 どうも上等な席に乗るのは申し訳ない。切符売り場で、

 「すみません、京都まで3等席を1枚ください」

 

 駅員は席の混み具合を確認して、

 「あいにく3等席は満席です。2等席なら空いてますが」

 しかたなく2等の席を求めて腰を下ろしました。

 しかし贅沢しているようでどうも落ち着かない。

 

 そこで車掌が通りかかったときに、

 「3等席が空いたら、そちらに移してください」

 と頼んでおきました。

 それからいくつかの駅を経てようやく3等席が空いたとのことで、

 Aさんは喜んで席を移り、自分の心は満たされたのであります。

 

 同じ頃、Bさんは「ハハキトク」の知らせを受けて、

 取るものもとりあえず列車に乗ろうと駅にかけつけました。

 Bさんは貧しく、生活もままならない。

 なんとか故郷までの旅費を捻出しました。

 

 Bさんは切符売り場で切符を求めました。

 「すみません、京都まで3等席を1枚ください」

 駅員は席の混み具合を確認して、

 「あいにく3等席は満席です。2等席なら空いてますが」

 次の列車を待てば3等席も空いているとのこと。

 しかし2時間も待たなければならない。

 Bさんはしかたなくなけなしのお金をはたいて、

 2等席の切符を手にして、列車に乗り込みました。

 

 乗り込んだのは富豪のAさんと同じ列車でした。

 この列車の

 3等席には、金持ちでありながらも自己の心を満足させているAさんがいる。

 2等席には、貧乏でなけなしのBさんがいる。

 

 もしもAさんが2等席で満足していれば、

 Bさんは3等席に乗れたはずなのに。

 

 Aさんは、教えどおりに「奪い合いをしてまで生活しない」

 ということをモットーにしているので、

 自分は人に上等の1、2等席を譲って3等席に乗ったことを、

 内心すこぶる愉快に考えていました。

 

 しかし、実は他を犯すまい、できるだけ自分は人を犯さない、

 下座の3等席に乗ろうと思いながら、

 「かえってAさん自身が金を少なく払って、貧しい他の人に多く支払わせた」

 ことになったのであります。

 

 Aさんは自分の心を満足させることが、

 人のためになると勘違いしていたのでありました。

 結果的には金に執着し、貧富に執着していたのであります。

 

      ◇  ◇  ◇

 

 いかがでしょうか。

 私たちも「いかにも良いことをしていますよ」と自己の内面は満足しているけれども、

 そのために家族や周囲の人を泣かせているかもしれません。

 とくにモラリスト、道徳家の中にありがちなことです。

 

 これは「義」と「愛」に関係しています。

 義とは「自分はいかにあるべきか」ということで、

 愛とは「まごころからの思いやり」です。

 「自分がいかにあるべきか」ということを貫くことは、

 とても大切なことだと思います。

 私も自分でこれを貫くと決めたら、断固やりぬくようにしていますが、

 ところが、この話を聞いてからは、その否をしみじみ感じました。

 

 「自分はこうあるべきだ」と決断するのはよしとして、

 果たして回りがよく見えているのかどうかということ。

 蓮沼門三先生が言うように、

 「自分が強いと思っている」すなわち我(が)が先行していないか。

 「義」に厚いが、「愛」に薄くなっていないか。

 自分の意志ばかりを貫き通して、周囲を不幸にしていないか、ということ。

 

 「愛に厚く、実力に応じて義に厚かれ」というのが本当のあり方なんでしょうね。

 人間はまず、どこまでも情の人であるべきなんですね。