ある意味、お金の価値の半減
「飢え」というコトバが全く現実的でなくなり、誰でも親や自治体に寄生すればなんとな〜く生きてゆける「超豊かな」世の中になった昨今です が、「稼ぐ」という行為がこれほどまでに軽視される状況になってしまうと。。(被害妄想的にそう考えているのは自分だけなのでしょうか?)
それはつまり、貨幣価値が減少しているということではないでしょうか。
稼いだカネに対して感謝されないわけですから、つまり、稼いできたカネにはそれほど価値はないということですよね。
ムカシ、まだこの国が豊かでなかった頃は、お米(と、お百姓さん)に対する感謝と同じレベルで、おカネ(と、おカネを稼いでくるおとうさ ん)に対する感謝があったような気がするのですが。。
これも、幻想なんだろうか。。
デフォルトで父親に対する感謝があるからこそ、家庭内で父親の意見が通りやすく、それゆえに父親も、自分が家長であるという自覚を持ち、 「扶養家族を育てなければ」という気概を持ち、ばりばりと仕事を頑張って、という好循環が生まれ。。
父親がお金を稼いでくることが「大したことではない」この世の中では、デフォルトで父親に対する感謝はなく、父親の小遣いも少なく、家庭に お ける父親の立場もなく、父親は、何のために苦労して仕事しているかわからなくなり、モチベーションが下がり、給料も減り、家に寄り付かなくな り、ますます 家での立場もなくなり。。 という悪循環。
(似たような話をどこかで書いたかもしれません)
日本人の「実感としての貨幣価値」が下がり、相対的に、「主体的な家族サービスの価値」が上がった、ということですね。結論づけると。
うーんでも、それもわかるのだがそれでいいのだろうか。。
家族が、根源的な問題として、「なぜこの資本主義社会で、自分は生きてゆけるのだろうか?」と、考える時間は必要だと思うのですが。。
主体的な家族サービスの価値がその家の中で上がったからって、家長は家族サービスばっかりしているわけにはいかないでしょう。主体的な家族 サービスは単なる付加サービスにすぎないわけで。
余談ですが、先日、誰かに聞いた話では、自宅から通っているフリーターの若い女性で、自分の給料日がいつか、自分が月々どれぐらいもらって いるかすら知らないヒトがいるそうで。。
財布におカネがなくなったらATMで1万、2万ぐらいずつ引き落とす。通帳は見ない。残高がおろせない金額になったら親に借りる。旅行代 や、まとまったおカネも大部分は親に援助してもらう。
それで日々「なんとな〜く」暮らしていけてしまう。
その「なんとな〜く」がクセモノといいますか、自分がもっとも敵視すべきモノだと考えていますけどね、今は。