元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

期待に応える、ということ(2)

過去に日記に書いたのかもしれませんが、高二か高三の頃、自分はなんで勉強しないんだろう? と、自分で自分がフシギだったのですよね。

今考えると、そのギモンの持ち方からしてフシギですが。。
「なんで勉強しないんだろう?」と思うぐらいなら、その場でやれよ! と、過去の自分を叱ってやりたいところですが。。
頑なに、やらない。期待されていると、やらない。

あのとき、若いなりに、「ああ、自分は、たとえば親が死ぬとか、かわいがってくれたばーちゃんが死ぬとか、そういう極端な契機がないと変われないんだろうなあ」と、思いました。それは、今でもおぼえています。

自分の意志の弱さに対する苛立ちというのは、確かにあったのですね。なぜ自分はこんなにも意志が弱いのか? と。
でも、トータルで意志が弱いわけでもない。学生生活において頑固なところは相当頑固でした。引かないところは、引かない。
いや。。違いますね。なぜ自分はこんなにも「継続しないのか?」「続けられないのか?」といったあたりですね、苛立っていたのは。
毎日30分でも、継続して勉強すればいいのに、しない。。

ということは「期待」とはあまり関係ない?
「うまく立ち回れない自分」に苛立っていたのかもしれない。(今、こうやって書いていて気付いてきました)

田舎で育って、まだ価値観の多様化が始まっていないような時代でしたので、「国立大学に進んで公務員にでもなって、あとは安泰」とか「医学部に進んで医者になって金持ち」とか、田舎の進学校にいた自分たちにはそのような画一的でかつ少ない未来の選択肢しか提示されていなかったのです。

で、僕らは、オトナたちのいわれたとおりにやってれば、その敷かれたレールの上を進んでさえいけば、バラ色の(当時はそう思われていた)未来が約束されている、と思わされていました。
で、その頃、もうひとりの自分が僕に対して「別に反抗せずに、オトナの敷いたレール進んでいきゃいいじゃん」と、しきりに諭していたのですよね。「何にハンパに反抗してんだよ」と。。未来の前に「バラ色のキャンパスライフが待ってるぞ?」と。。

勉強さえしていれば近未来の楽しい大学生活も、その後の安定した人生すらも約束されるのに、勉強さえしてればいいのに、なぜやらない? という、その当時の自分に対するギモン。。

僕のその頃の、「何か」に対するプチ反抗は、もしかしたら、正しかったのかもしれません。
結局、勉強だけしていたとしても、楽しい大学生活も安定した生活も、約束はされなかった。
なぜならば、端的にいえばバブルがはじけたからです。
あくまで、結果論ではありますが。。

僕は結局、いわゆる「迎合」をせず、結局今でもほとんどしていません。相当、損はしてきましたが。。
結局なるようにはなってきました。
高校時代の「勉強」のように、その時代その時代で、迎合してやっときゃいいのに。。ということを、あえてしない。で、損をする。軽く信頼を失ったりする。相当な回り道をする。。

でも大局的にみれば、今自分は家族を抱え、健康に生きています。「それでいいではないですか」という気にもなってきます。


。。ところでハナシを戻しますが、今考えると、僕がだいぶオトナになってから、僕をかわいがってくれた祖母が大往生し、そのあたりから自分は変わったように思います。
それは、時期が偶然一致しているだけで、祖母の死が直接的な契機になったわけではありません。

高校の頃、自分はなんで続けられないのか? ものごとを継続できないのか? と思っていたこの自分ですが。。今は「生活習慣の継続」の権化になっている。。変われば変わるもんです。
ぜんぜん、大丈夫なのだと思います。自分の素養として、意志が弱いわけではぜんぜんなかった。


。。この書き出しは、自分にとってはけっこう重要なような気がしますね。。