元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

Logues その2

Logues
2008-11-19 ■南直哉・茂木健一郎対談:「脳と癒し」

修行して「無」になればパニック障害とかそういうものも治るんだろうと思っていたらしいんですけど、これはナンセンスな話でございまして、座禅したところで何したところで治らない。それは、この世の「苦」というものをこの世の中で消すことが無理なのと一緒でございまして、苦しくても生きていけるようになんとかする智慧を出すのが仏教であって、「苦しいことを解消する」っていうのは――冗談では言えても――私は無理だと思う。


例えば、永平寺で修行してると、面白いことは一つもないわけですわ。
(中略)
面白いことは一切無い。ところが、どれほど切ない時にも、嬉しいことが 時々あるんです。今までずっとできなくて怒られてきたことが突然なんとなくで きたり、座禅してて脚ばっかり痛かったのに、或る時「あ、こうやるとうまくい くな」というのがちょっと分かったりすると無茶苦茶嬉しいときがあるんですよ。そうすると「もうちょっとなんとかならんかなあ」みたいな。それでまた続くときがある。
仏教は、苦しむ人や切ない人に何か決定的な答えを与えるものとはちょっと違うと私は思います。私は、仏教は生き方のテクニックだと思うんです。つまり、問題があったとしても「どうやって切り抜けていくか」っていう話だろうと思うんです。座禅にしても何にしても。
例えば「永遠」というものを考えたときに、「永遠なもの」というものは我々には「瞬間」見えるときがある。それは我々の生活の秩序や雑事の毎日を断ち切るように現れるときがあるんです。それは座禅のなかであるときもあるし、法要をやっているときもある。あるいは、困っている人と喋っているときに突然来ることがある。「ああ!」って分かるときがあるんです。「これがおそらく、正しいことなんだなあ」みたいな。
つまり、日常の雑事と別にあるんではなくて、日常生活のなかで突然現れるものがあるんですね。おそらく道元禅師もそうだったと思います が、座禅の修行というものが日常の有り様――「日々是好日」って言いますが、つまり日常生活――のなかに真理を見ようといったときに考えているのはそういうことだろうと思う。