元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

運命

自分が何か超越的なもの(「神」ライクなもの)に生かされているのだということは、僧じゃなくとも特別な修行していなくとも、苦労していなくとも庶民の暮らしをしていても気付くことはできます。


さて、自身の運命というのは、自分ではどうにもならない、という考え方と、自身の運命というのは自身でいかようにも変えることができる、という、相反するふたつの考え方が存在します。

どちらも、さもありなんと思います。

たとえば、どんなにポジティブな考え方をして成功の階段をのぼっていったところで僕はモナコの国王にはなれません。

「運命はどうしようもない」論者の方は、そういう極端な例を引き合いに出すのでしょう。


安岡正篤さんは、たしか、運命と「宿命」の違いということで説明されていたように思います。詳しくは忘れてしまったのですが。。

「運命はどうしようもない」といってしまったら、僕らは人間に生まれたときに選択の余地はなかったわけで、そういうのは「宿命」というのでしょう。

そういう考え方はやめて、今の自分、そしてこの環境でどう生きるか、という「道」は必ずあるはずで、人生なんていうものはそれを見つけるための旅だといってしまうことも可です。

ほとんどのヒトは見つけられないのでしょうし、あまりにも横並びの考え方をしていたのであれば見つけられないのでしょう。

ただし肝要なのは「身の丈に合った生活」ということを知ること。日本人であればある程度、横並びで行わなければならない「礼節」というのは、あるのです。

その、バランスなんでしょうね。。
まずは、マジメに、自分は「なぜ」生きているのだろうか? ということから考えることですね。。
「なぜ」の理由がわからないと「道」へたどりつくことはできないのです。