中川宋淵老師
- 作者: 高瀬広居
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2004/09/17
- メディア: 文庫
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茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものとこそ知れ
ありあわせの道具、ありあわせの野草一輪さして一服の茶をいただく。(略)茶の型を知らねば茶をのめんというふうに作為がでてくる。(略)只、茶をのんでくれたらいいのだよ、こっちは。仏法も同じ。只ありがたくなればいいのに、仏教哲学したり、坐禅したりしなくては、生きてることのありがたさがさっぱり分からんようになる。茶でないのが茶、禅でないのが禅。
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真理をさぐろうと改めて学問修行などしなくともよい、一切が仏事。だから、あたりまえの心―平常心でいろ。平常心とは"造作なく、是非なく、取捨なく、風聖のない心"。心そのものがただちに仏、"即身成仏"であるような心であり、修行の力をかりず、坐禅を待たぬ心だ。なんだか分からぬというなら、その分からぬ心そのものが平常心。分からぬときは迷いだが、分かれば悟りとなる心。
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竜安寺の石庭、知ってるでしょ。枯山水。あれはなにもあの庭だけがすばらしい天上天下唯我独尊なのではない。どんな石ころも、その目でみれば同じです。アメリカにだって立派な大石がいくらもある。それをわざわざ竜安寺までみにきよる。形にとらわれとるな。心で拝めば、みな尊い立派なものなのにね。
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私はね、あるとき極楽と地獄の夢をみた。はじめに地獄にいった。食卓には山海の珍味があふれんばかりにのっており、長い箸がめいめいの前に置いてある。みんな大喜びで食べようとする。ところが、箸が長くて自分の口に入らん。ご馳走がありながら食えん。焦れば焦るほどますます口に入らず、次第にみんな痩せさらばえてゆく。
つぎに極楽にいった。ご馳走は地獄ほどではなかった。みな長い箸をもっているが、ふくよかに、よう肥えとる。長い箸を使って相手の口に入れとる。地獄の人は自分の口へ、極楽の人は相手の口へ。自分が自分がというから、己れの口に入らない。