オリジナリティとマイノリティ
人間、あるいはこの社会においてオリジナリティというものはもはや消滅しつつあります。が、昔も今も変わらず、人間ひとりひとりは圧倒的に「個性的」であり、絶対無二の存在であるわけです。
この、一見矛盾しているような状況について、少し考えてみたくなりました。
たとえば日本人、その中でも同じ時代を育った同世代というのは、確かに思想面、ライフスタイルなどは似てきます。これはマスコミの影響であることは間違いない。
そのなかで、一部の異端が発生するのも自明ですが、異端すらも一定の割合で発生することが、予測されている。
「異端」までは、オリジナリティではないのです。世間一般でいわれているところの「個性的」ではあるかもしれないけれど。
「異端」こそが(単なる)「マイノリティ」にすぎないのですね。
僕らが、他人をみて唯一「オリジナル」と思えるのは、「異端」ではなくて「天才」なのでしょう。
「天才」というのは、文字通り圧倒的な天賦の才のことを指すこともあるでしょうが、どちらかといえば圧倒的な「継続して努力できる才能」のことかもしれません。
というよりも、圧倒的な天才すらも21世紀には出尽くしてしまって、後者の天才のほうが賞賛されるような世の中になってゆくような予感がありますし、また、そうなってほしいと思います。
さて。。ライフスタイルなどはマスコミの影響により、酷似してくるのですが、それでも僕らひとりひとりの顔も違うし、背格好も違うし、アタマやココロの中で考えていることは、ゼッタイ的に違います。
考えていることの表層は、いってみれば「ファッション」ですので、似てきますが。。
その奥底にあるものは、ひとりひとりがカンゼンにオリジナルであるはずです。
なぜ似てくるかといえば。。やはり学校教育の影響というものは、あるのでしょう。よくも悪くも。
ヒトは、ある程度型にはめられなければ、この世の中、協調して生きてゆくことができないのです。
ですが、学校教育のせいで個性(とやら)が伸びなくなっている、というのは大いなる間違いで、個性を伸びなくしているのはマスコミです。
マスコミの裏側には、学校教育に携わる先生のその裏側にいるヒトたちと同じぐらいに、やたらとアタマのいいヒトたちがいて、常に我々を何かしらの情報操作しようと狙っています。
その目的の多くは、日本人を画一化して、同じように「製品を買わせよう」ということです。つまり、宣伝広告の意味合い。
何かを買わせるためであれば何をしてもよい、と思っています。だから、相当気をつけなければならない。
世の中に協調しながら、隣人他人と有効な関係を築きながら、自身が絶対無二の存在であることを主張することは可能だと思っています。
個性、オリジナリティとは、必ずしも人間関係を破壊するものではない。(ハカイするものも確かにありましょうが)
。。そして僕は何を言いたかったのだろうか。。
そう、僕も今年の抱負は(おそらく)「様々な矛盾していると思われる概念たちが、実は両立できるのだということを自分なりに証明してゆく」ということなのです。
これについてはおいおい書いてゆくことになると思います。