元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「新庶民」論のおぼえがき

人生観、のような、思想の話

  • 【重要】[新庶民]論序章

昨今、徐々に「ワールドワイドな生き方至上主義」になってきており、私のような都内オンリーの散歩愛好者は若干、肩身の狭い思いをしています。

でも私も実は、そういう「ワールドワイドな」生き方をカルく軽蔑していますが。。
この対立の根はけっこう深いような気がしているのです。


地域に根ざし、地域に閉じた生活を志向する。(「志向する」のであって100%地域に縛り付けられるということではありません)
職住近接を求め、近隣との交流を大切にする。たとえばストレスなどは近所の散歩で発散する。

「日常」を大事にする。「日常」の中にささやかな喜びを感じることができる。

。。という生き方を、「ちっちゃい」と言われたことが何度もあります。「世界」に目を向けているヒトたちに。。

その「世界」というのは実はまったくリアルではなく、ただのブラウン管の向こうなのですけども。
あるいは、たまに海外旅行をしているという事実だけで自身を「ワールドワイドな人間」であるとカンチガイしてしまっている。。

ムカシの「なるほどザワールド」「世界まるごとハウマッチ」の流れを汲む、「不思議発見」ですとか、そういう情報娯楽番組ですね、ああいうのを見て「海外旅行いきたいな〜」症候群に陥ったままリアル社会に地に足をつけた生活をできないヒトたち。

あるいは、まるで全共闘時代の学生のよう(「世界同時革命!」みたいな)に、「いいオトナ」になっても「これからの国際化社会を生き抜くためには〜」などと、自分の足元の生活を安定させられないまま「世界を語る」オトナたち。

「コドモを国際人にしなければ!」と、とりあえず安心のためにコドモを英語スクールに通わすママさんたち。あげくの果てには土着の日本人なのにインターに通わせようとしたり。

テレビを通した知識だけで、ただ国外で「観光」をしただけで世界を語ることのなんと虚しいことか。。と、思わないのでしょうか。。
テレビにカジりついている時点で、「世界を語る」資格はないような気が。。


というわけで、そういうヒトたちを反面教師として、このご時勢であえて地域に重点を置くライフスタイルを志向するヒトを「新庶民」(仮称)と名づけて差別化したいのです。
もちろん私も「こっち側」です。

近い将来には絶対にその、偽ワールドワイド志向から「こっち側」へゆり戻しがくるものと確信しています。

。。書いていて思ったのですが、こういう考え方というのは別に右翼的でもないと思うのですが。。ごく自然に、そう考えるだけで。


不毛ないさかいを避けたいがために、そういうこと(「ちっちゃい生き方」とか「世界に目をむけよ」とか)を上から目線で言われてこちらが無用なストレスをためないために、まず、その自分が暮らしてゆくコミュニティの物理的位置をあえて「都心」(つまり、日本の中心)に設定したわけですね。(後付の理由ですが。。)

都心に根付いて生活をしていれば、少なくとも偽ワールドワイドな郊外生活者に小馬鹿にされることはなくなります。(逆に、好奇心の目にさらされることになったりしますが)

郊外、あるいはハンパな地方ですと、地域に根付いた生活(だけで人生を満足させること)すら難しいことがあります。
それはまた別な、重要な議論なのですが。。また別な機会に。

再録

「昨今の若者は〜」論にもなってしまいますが、この豊かな高度資本主義社会で、「楽な」生活を送っていて、なぜ不満をどんどん蓄積させてゆけるのかが、わからないんですね。

ここがジェネレーション・ギャップなのかなあ、と考えていたのですが、その不満体質は、我々世代にも侵食しているのは間違いなくて、だから、「世代間連帯」を謳っている私は危機感を感じているのです。

その不満というのは、精神的なものばかりなんですよ。「確かに生活は楽かもしれない、でも、精神的に満たされない。。」

そんなことは本来、他人には知ったこっちゃない話だと思うのですが、いわゆる「カウンセラー」などは、こういう人種に対してどういう対応をしているのでしょうか? 「あなたの言うこともわかります」とあいづちを打っているだけなのでしょうか?


精神的不満足の発生要因は、確かに一概にはいえないのでしょうが、その要因を(逆に)豊かな生活のせいにするのが、サイテーだと思うのです。

「生活が豊かになったから、不満」というのはそもそも間違っていませんか。

豊かな生活を送らせてもらっている免罪のために、わざわざ、小さな不満を見つけてきて「ほら、私もこんなに不満だらけで、楽しくないんだよ?」と聞かれてもいないのに他人にふれまわっているように見えてならないのです。


ありがちな結論ですが、まず、自分はどれほど恵まれているか、ということを見つめなおしてみる必要はあるでしょうね。

それと、その中でも大切なのは、自分が恵まれている(「楽」している)のは誰か周囲の人間が頑張ってカバーしているのではないか、ということ。

世の中は、「楽」している人間を「楽」してない人間が支えているから、成り立っているのだということ。


コドモ(ひな鳥)じゃないのですから、口をあけてれば何かを入れてくれると思っているオトナが多いですよね、最近。
いいオトナが。。

しかも、自分は何も与えないくせに「(ガマンして)口をあけてんだから何かいれろよ!」と逆ギレする。

「状況」は豊かで、楽なんだけど(口をあけていれば何かが入ってくる)、逆ギレする状況を自ら作り出して不満を表明する。


口をあけても何も入ってこない、と不満を表明するまえに、まず、誰かに何かを与えたり、施したりしてみたらどうですか。


なぜ、そうなってしまうのか。。 どのような教育を受けてきたのか。。

ムカシは「親の顔が見たい」でしたが、今は、そのヒトが高校ぐらいまでに携わってきた生活環境すべてを見てみたいですね。完全なる反面教師として。