元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

どこまでいけば、満足か?

本来の日記部分

  • 仕事

なんだか、現場で常にイライラしています。

こうありたいまたは反面教師

  • どこまでいけば、満足か?

大きく分ければ「想い出づくり」(旅行とか)と「物欲の実現」と。。
とにかく、カネを使わなければ実現できない目標が、分散してたくさんありすぎですよね、現代人は。。

さらに、マスコミにあおられ続けて目標がどんどん増えてきてしまい、まったく収束せずにいつしか欲望の無限ループに陥ります。

もうちょっと、絞ってもいいとは思いますが。。
本来ならば、「あれもしたいこれもしたい」はやめて、絞ってゆくべきなのですが、もしそれができない、あるいは、目標をたくさん持つことを是とする(たとえば、充実感を感じることができるとか)のであればそれはヒトの自由なのでかまいません。

ただし、現代人(新庶民)には、目標を設定するだけでなく、自身の到達点、ゴールをびしっと定める能力が問われています。
どこまでいけば、満足か? を自分で規定する、ということです。

そのゴールがきたら「すっ」とこの「ゲーム」からおりる潔さ、といったようなもの。。
そうでないといつまでの無限ループにハマったまま、不本意のまま人生終えることになります。

「死ぬ」がこの「ゲーム」の終わり方でいいのでしょうか? それだと資本主義に精神を支配されたまま終わりのような気が。。
それで満足なのであればそれでいいのでしょうが。


「迫害」に近いと思いますね。「正直ものがバカをみる」状況というか、「民度が低いヒトたちのやったもん勝ち」という状況は。

それは確かに、こんな薄甘い状況では、「民度が低いヒトたち」が跋扈するようになります。

たとえば、節制をする。あるいは、ヒトに迷惑がかかるだろうなと思って自粛する。

そういう人間が「バカを見る」世の中になっていっている、ということに警告を発したいですし、そういう意味で昨今世相は相当マズいことになっていますし、今後ますますマズいことになってゆくであろう、という悲しき予感があります。

案としては、警察業務を民営化して、民間に委託して、民事に介入してもらう他ないと思う。


民度の低いヒトたちが跋扈する世の中(現にそうなり始めていますし、今後はますますそうなってゆくでしょう)に対して、私含めて民度を高くありたいと願うヒトたち(実際「民度」が高く保てているかどうかは別です)が、「馬鹿らしい」と感じるのは自由である、ということをずっと書いてきたつもりです。

民度が低いヒトたちの矯正にコミットするのは馬鹿らしい。どうせ直らないのだから、そんなことの労力を使うのは馬鹿らしい、と。

「馬鹿らしい」と思い、コミットしないこと、無視すること、関わらないようにすること、が、何が悪いのか、と。

高度資本主義社会では生き方を選択できます。ということは、資本をもって関わる人間を限定することも許されるはずです。
(略)
そもそも、昨今の東京では、「馬鹿らしい」と思わせる人間が増殖するためのシステムが出来上がっているわけですから。教育からして、そういう人間を増殖させる手助けをしています。(これから変わるかもしれませんが)

そういうシステムが出来上がっているということは、「民度を高くありたい」と願うヒトたちは徐々に少数派に追いやられていく。

「馬鹿らしいと思い、コミットしない」というのは、少数派に追いやられてもかまわない、と言っているのと同じなのです。自分たちは自分たちのコミュニティでやってゆくから、「隅っこ」はくれ、と。民度が低いヒトたちは干渉しないでくれ、といっているわけです。

さらに言いたいのは、民度を高くありたいと願うヒトたちを、間違った平等主義で「引きずり落とそう」としないでくれ、と。実社会でコミットしようとすると、必ずその攻撃を食らうのです。

「いっしょに落ちぶれようよ〜」と。