感謝教
抜粋・紹介
- 作者: 山本七平
- 出版社/メーカー: 学研
- 発売日: 1984/10
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
戦前の生活というのは去年も今年も来年も、リズムはゼッタイに変わらない、という生活の前提があったと。
本に付箋をつけておくのを忘れてしまったので引用できないのですが。。 そういう記述がありました。
おそらく、「自由」も今ほどは、なく。。
それに対して「疑い」が皆無であったと。
フシギですね。戦前であっても経済は発達していってるはずなのに、その「変化」の実感が、戦前の「庶民の総体」にはなかったらしい。おそらく、「変化」を実感できる階級というのが明確に、庶民以外に存在したのでしょうね。「洋館で連夜パーティーに興じる」みたいな。。(推測ですが)
ちょっとハナシそれますが、現代における宗教というのは、その「疑い」を消散さすための「ツール」のような気がしますね。
だからこそそれは、現代社会に求められている。
この本でも、別な対談で、「なぜ日本人は絶対神をもたないのか?」と疑問を呈する方がいました。
にも関わらず、オウム以降宗教というコトバがますますタブーになってしまった。
でもそれは、必然的にカルト化していってしまう新興シューキョウにこそ問題があるわけでして。。
超越的な「何か」に自然に祈りをささげる、という行為はタブー化されていません。困ったとき、何かにすがりたいときに超個人的に、自然に、「神よ」と精神的な助けを求めるのは何ら悪いことではありません。
「神よ」と祈る行為そのもので救われるのであれば、やったらいいのです。見返りを求めなければ。。
そもそも、「神よ」と祈って、願いがかなえられなかったところで何に対しても文句は言えないのですから。
その、超越的なものに対する祈りの発展形として、「感謝する」があると思うのです。
自分が、それなりに、飢えもせず、ただしゼイタクもせず、暮らしていけることを日々感謝する。
誰に感謝するか? その「誰」は、困ったときに「神よ!」と精神的助けを求める「何か」とイコールではありませんか。
「感謝教」とでも名づければよいのではないでしょうか。。
再録
- 満員電車(から「逃げる」こと)(2)「明日もこの場所にいるために」 (20070210)
「コミュニケーションを円滑にするために『ノミュニケーション』を」といわれても「なんでその必要が?」と思ってしまう自分がいるわけです。
確かに、「明日もこの場所にいるため」であれば、必要なのかもしれないのですが、自分は、1分1秒でも「この場所」にはいたくないのです。さらに、なぜ自腹で?「ノミュニケーション」とやらをしないといけないのか、と素朴に考えてしまいます。
さらにさらに、「ノミュニケーション」とやらでおいしい料理を楽しめるのならばまだしも、結局行くのは「ワタミ」とか「サクラスイサン」なわけです。おいしくもないつまみを、どの飲み屋でも味が変わらず安心して飲める瓶ビールで流し込み、酒がますますマズくなる上司の説教(ここぞとばかりの、「オレはホントはオマエのことはキライだった」にも似た)や、同僚のグチ(欠席裁判)、社内の恋愛のウワサ話、意味の全くない「派遣のねーちゃん」「受付のねーちゃん」のウワサ話、などなどを聞かされ。。
その飲み会の自腹割り勘による金銭的損失は数千円かもしれませんが、ネガティブなこと、ムダなことを聞かされる精神的ストレスと時間の損失は相当なものである、ということが最近わかってきました。まさに"Time is MONEY."
飲みによるウサバラシが不要な「基礎体力」のようなものが必要だと最近トミに思うのです。ストレスを自分で消化してしまえる能力。あるいは、自分で消化することが不可能であれば、たとえばスポーツなど、嗜好品に依存しない手段。
ぱっと見はサラリーマンでも、ネクタイして会社に「出勤」しても、ホントに心持はサラリーマンとは全く違うのだな、というのは、最近実感しているのです。自分は数ヶ月しか会社員をやっていないですし、「ニゲた」側ですから、10年、20年と勤続年数を積み重ねている人たちとは考え方が変わってゆくのは当然です。
昔は、それに対して卑屈だったのです。「ニゲた」という考え方をしていたので。。
でも、最近は、良くも悪くも何も感じなくなりました。それどころか「ヒトとして」はこちらのほうが絶対的に正しい、と最近は考えるようにしています。というよりも、あえて傲慢にそう考えているようにしている、といったほうが正解でしょう。