元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

まわりがそうしてるから 「すぐグチらない」「文句を言うぐらいなら

こうありたいまたは反面教師

  • 「みんなが」って。。

みんながそうするから、と、他人に判断をゆだねるときには高い確率で失敗するわけですよね。
いや、「失敗した」と思ってしまうことが多いというか。(実際、状況がホントウに「失敗」なのかどうかは別として)

自身が決断したのであれば、「失敗した」と思ってしまうことが少ない。
それはアタリマエなのですね。自身が決断したのですから。納得感があると、状況が自分にとって逆風が吹いていても「失敗」とは思わない(思えない)のです。


と、考えれば、いろいろなことを自身で決断したほうがよいにきまっている、と思うのが自然なはずなのですが。。

未だに、自身で決断できずに「まわりがそうしているから」とか「テレビでいってたから」という理由がメインで、モノゴトを決めてしまうヒトが多い。ものすごく。。

その理由は、後で失敗したときに言い訳ができるからなんでしょうね。

でも、判断を他人にゆだねようが自身で決断しようが、責任の所在は自身にあるわけですね。自身の行動なのですから。
私は、これこそアタリマエだと思っていたのですが。。
判断を(勝手に)他人に委ねて、責任の所在もなしくずし的に自分以外のところにおいておこう、と考えるほうこそ「ふつう」らしい。

ところが。。その責任の所在は、誰も受け取らないんですよ。宙ぶらりんになる。
最近の世の中は、「責任の所在」がぷかぷかといろんなところに浮いているんですね。


言い訳を残しておくため、退路を残しておきたいがために、自身で決断しないというのは。。
ムカシであれば、わからないでもなかったのですが。。
今はもう理解不能になってきています。

せめて、「すべては自己責任である」ぐらいの境地には達してほしいな、と。

自分について

  • 胸を張れる!長所

「すぐグチらない」「文句を言うぐらいならまず行動」「陰口を言うぐらいなら本人の前で」
といった「耐性」といいますか、クセを、コドモの頃からつけていたのは、ホントウによかったです。
という意味では親に感謝しないといけません。

親の意識的なしつけだったのかどうかは、わからないですが。。少なくとも母親がそういう人間であったことは確かで、私は母親を見て育ちました。

今流行りのスピリチュアル風にいえば、ココロの「ステージを上げる」ためには、これらは必須なわけです。
「庶民の総体」がステージを上げるためにはまずここから始めないといけない。
「庶民の総体」はすぐグチるし、重い腰を上げないし、陰口は言いまくるし、そのクセ本人の前では愛想笑いをします。それを矯正してゆくのはタイヘンな苦労です。

でも自分はおおよそ、クリアしています。(ただし自分は聖人君子ではないので。。世の中を生き抜くためにあえてそうすることもあります)
だから、そういう意味でこれから余計な時間を使う必要もないですし、若干スタートラインがゴールに近いと言ってよいでしょう。(と、気付いたというか自覚したのが、最近なのです)

ただ、クリアしているが故の「逆風」(「嫉妬羨望」の類)と対峙しなければならないという。。

別にスポットライトを浴びているわけでもなく、スターダムにのし上がっているわけでもないのになぜ嫉妬羨望の攻撃を受けなければならないのか。。
そういう攻撃は、公的なヒトたちに向けてほしいものです。