元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

天職願望

人生観、のような、思想の話

  • 【重要】「よりよく生きる」の消去法と、天職

たとえば節制でもおカネを使わないでもテレビを見ないでも、「消去法」ですよね。どんどん、余計なものを自発的にそぎ落としている感があります。というとカッコいいですが、そぎ落とさないとやってられない、というのが正直なところでしょうね。
とにかく、余計な「モノ」「コト」が多すぎるのです。そして、ハエや蚊のようにぶんぶんたかってくる、というイメージです。
日本人は私含め、買わされすぎ、持たされすぎ。
とにかく、消去法というのがこれからの自分のキーワードだと思っています。

そうして、いろいろとそぎ落としていった結果として自分がどうなっているか、の理想形が、ちらりと見えたのです。それが「天職」願望の復活というか。。

もう、朝から晩まで仕事しているというイメージですね。その「天職」は、複数であってもいいのです。たとえば、朝の近隣の掃除などもそう。立派な「天職」でしょう。近隣がきれいになるのはうれしいし、それによって感謝もされる。
とにかく連続的に朝から晩まで仕事をする。もちろん毎日ですよ。「土日」なんていう感覚は、ない。そして、「がっぽり」稼ぐ。「がっぽり」は相当大事です。「生きていけるぐらいのおカネ」では、あまりに少なすぎます。朝から晩まで毎日仕事するわけですから。
そして、その「がっぽり」稼いだおカネは、使わない。なぜなら、その段階(ステージ)では、自分は節制は完了しており、ほとんど自分のためのおカネを使わなくなっている、という前提ですから。。
おカネは、自分の「安心代」のために貯金し(もちろん、利率のよいところに!)、あとは、家族、親戚、そして近しいヒト、近所のヒトのために使う。あげちゃうのではありません。使うのです。
実際は、奥さんに「託す」ということになるのでしょうか。
とにかく自分は、朝から晩まで働いているわけですから、自分に使う時間はないのです。

たまに、おいしいものを食べる。もちろん、一人ではありませんよ。家族、親戚、近しいヒトたちと一緒に食べる。これは、意識としては「おこぼれ」です。おカネはもう奥さんに託しているわけですから、「おごっている」という感じではないのです。(おごっている、などと考えるとゴーマンな気持ちが出てきてしまいます)
そして、そういうときだけ、ちょっとお酒を飲む。そのころにはもう継続して酒を飲まなくなっているはずなのです。

家族には、天職を持っていることにより、尊敬される。コドモには、「背中」を見せて育てる。「尊敬」があるから、家庭もその周辺も、うまくいく。

でもたまには、ふらっといなくなることを、許してもらう。なにせ毎日仕事してるわけですから。。いつの間にいなくなる。そして、2週間ぐらいで戻ってきて、何もなかったかのように仕事をする。それが年に2回ぐらい。だから、年間約30日しか休まないのです。

「いなくなる」というのは、仕事を休むだけではないのです。消息不明になる。その間何をしているかというと。。コッソリ昼から酔っ払っているわけです。どこかで。


自分の視野は、何度も書いているように、家族、親戚、そして近しいヒトたち、にしか向かない。なぜなら、それがヒトとして自然だから。
間違っても「世界」とか「エコ」「地球環境」には目はいかない。自分がそこに向かう必要は、まったくないのです。
そもそもテレビをみないので、そんな、「偽りの外部」に思いをめぐらす必要もない。


天職に対する「渇望」というのが、出てきましたね。。正直、相当長い期間、おカネのためだけに働いてきましたからね。。 その反動は、あるのでしょう。

そして、それと時を同じくして、不労所得者への憧れは、ほとんどなくなってきましたね。ムカシは相当、不労所得者になりたい、という思いが強かったのですが。。 やはり自分の中では、そういう生き方は「ダメ」みたいです。

「ほとんど」なくなったというのは、たとえば自分が映画俳優にあこがれる、ぐらいのレベルであれば、憧れは残っている、ということです。

再録

  • 追随(20070521メルマガ)

もともとマスコミに追随するのがイヤで仕方がなかったのです。マスコミからオピニオンを得ること、というか。

たとえば何かのテレビ番組をみて、いいこといってるなあ、いただき、と思ったら、次の日には多くの人がそのオピニオンをいただいてるんですよ。


ムカシ話ですが。。
選挙の前とかになると、マジメに新聞読んだりして、政党ごとの政策の比較とかを自分なりにまじめに考えて、投票していたつもりでした。

でもそれは、今考えるとものすごくアホらしいことで、結局自分は共産党公明党がどんなに完璧な政策を主張したとしても、そこには投票しない。だから、新聞で政策を比較する意味なんて最初からないのです。

そして、当時自分が読んでいた新聞は赤旗でも聖教新聞でもない。新聞の選択の時点で、一般紙を選んでいるところで自分のオピニオンは決まっている。「大多数」に最初から属してるのです。

かくして選挙の例でいえば、新聞によって世論は誘導されています。いや、「いた」ですね。ムカシはもっと新聞の影響力がありました。今はどうなんでしょう。

「追随」がいやで、どういう方向に進んだのかというと、なるべく発行部数が少なそうな雑誌を読んでいました。
これも若者にありがちな選択なのですが。。

インターネット黎明期以前の話です。今だったら違う道にいってるのでしょうが。。

そこで展開されているオピニオンをパクって、次の日披露しても「ワンアンドオンリー」なわけです。

その方向性は確かに間違ってはいなかったというか、その頃の自分にとっては精一杯の背伸びでした。

今考えるとまだまだアオいのは、しつこく、何かに頼って「情報」を得ようとしていたことです。
情報を「得よう」という受け身の姿勢は、相手がマスだろうがインディペンデントだろうが変わっていないわけで。

それをなんとかしよう、とまではアタマがまわりませんでした。
よりインディペンデントに近いオピニオンを自分の身にまとうことで満足を得ていたので。。 今考えれば、そこにはかすかな自己陶酔もあったのでしょう。