時間を支配する インテリと「思想」 司馬遼太郎
本来の日記部分
昨日はおかしな日でした。この日記は保存していたと思ったらしておらず、ぜんぜん別件ですが、他のgooブログに投稿した文章は、長編だったのに投稿ボタンを押したらいきなりgooのログイン画面に切り替わり、ログインしたらもう文章データは失われていました。
はてなはバックアップ機能があるので復活できました。gooは、文章入力中に画面を切り替えたら情報は失われます、という警告は書かれていますが、今回は私の意志で画面を切り替えたわけではない。
それにしても、入力の途中のテキストデータはブラウザのキャッシュのどこかに残らないのだろうか。。
人生観、のような、思想の話
- インテリと「思想」
司馬遼太郎の対談(後述)を読んでいると、これは私見ですが、インテリ層はインテリ層で区別しておかないとハナシが進まない、というところがありますね。
そしてそれが鼻につかない。別にインテリ層でないヒトたちを見下しているわけでもない。その代わり、違う人種だという自負はあるようです。
自分らはインテリである、という自信に裏付けられた対談のほうが面白い。
これは、現代でいえば一種の「オタク同士の会話」に近いのではないでしょうか。
。。あれ? インテリというのは「上流階級」ではないのでしたっけ? いや、違うんですね、明確に。
かつての上流階級はほぼインテリである、というだけのハナシで。
司馬の例えを引用すると、戦中に、徴兵された労働者階級、商人などに対して司馬が何かを教える機会があり、「徳川家康を知っている人は」と聞いたところほとんどの人間が手を挙げなかった、とあります。
なぜならば、「そんなもん」知らなくとも生きてゆけるから、ですね。
インテリは「地に足のついた生活」に必要のないことを知っている。それはそれでよい。知らなくともそれでよい、そのヒトが生きているのであれば、と。
まァちなみに自分はバリバリの「ワーカー」ですが。。会社組織に属していない時点で、現代社会では知的生産をしていようがしていまいが、「フリー」イコール「ワーカー」と定義して差し支えないと思いますね。
ところで、知識が生活に必要ないのであれば、なぜ学問がこれほど普及したか? なぜ識字率ほぼ100%を維持し、高校進学率が95%を超えるところまできているのか?
それに対するひとつの答えとして、私は「思想するためである」という仮説を立てています。
戦後、ほとんどの人間が高校程度の学問を修めるようになり、「徳川家康」のことを誰もが知るようになりました。わずか60年で!
(無用な反論を防ぐために記しておきますが、以下の話は、わずかな例外のヒトたちのハナシはのぞいています)
そして、それが果たして役に立っているのか? という疑問は、常にいろいろなところで、出てきています。
役には立っています。なぜなら、共通のコミュニケーションの素材として。
100%の共通認識「すら」知らなければ、世の中から疎外されてしまうのです。
それはかつて、「学」が必要のない地域共同体であれば、共通認識は「ムラの掟」みたいなものでしたが、今は、そういうものではなくて「最低限の知識と倫理」が共通認識にとって変わっています。
「徳川家康って誰?」というヒトに対して、幻滅しませんか? 会話する気が起きますか?(慶喜を知らないならまだしも)
ところが、教育水準が上がっているにも関わらず、「思想」をする人間の割合は変わっていないようです。それは、なぜなのでしょうか?
自分は、教育水準が上がっているから人間は少しずつ思想をするようになるだろう、と楽観的な考えを持っていましたが、どうやらそれは「買いかぶり」らしい、というのは最近になってわかってきました。
教育水準の上昇と、思想する人間の数の増加というのは、それほどの連関はなさそうです。
なぜならば、いつの時代も「思想」というのはすなわち「キケン思想」につながってゆくからです。つまり、国が国民に思想することを望まない。だから、有形無形の圧力をかける。現代社会であればマスコミですね。マスコミによって国民が思想しないよう仕向ける。
一般庶民も、十分「思想」できる知識を蓄えていても、「思想」まで踏み込まない。実際、「思想」しなくても食えていけるのであればわざわざする必要もない。ましてや、「思想」することによりお上にニラまれたくもないでしょうし。。
なんだかハナシが拡散してしまいましたが、結局何が言いたかったかといえば、まず、知識の蓄積という「素地」ができあがったということは、最低限、思想する「自由」が生まれただけである、ということ。そこから思想するもしないもそのヒトの自由で、特に強制するものでもない。
ですが、思想したくとも「素地」がないからできない、というのはもはや言い訳にしかすぎないのです。
「時間がないから」というのもウソです。思想というのは寝る前の5分でも、フロに入りながらでもできます。
時間切れなので続く。。ぜんぜん核心までたどりついていない。
- 時間に支配されない
自分が常々書いている、「課」を受け入れること、継続することこそが、禅でいう「時間を使う」ことだと思います。ここが、つながりました。(【重要】マーク)
まだ仮説ですが、これは、間違いのないところでしょう。もう少し寝かせておきましょう。
ふつーの感覚(今まで)ですと、逆に感じているわけですね。日課、週課などで自分のスケジュールが埋まってくると、自分が時間に支配されている感じがある。
でもそれは、逆なんだ、と。
確かに最初は、そう思うのかもしれませんし、「やらされている感」があるうちは実際時間に支配されているのでしょうが、その「課」を続けてゆくと、生活に「ダイナミズム」のようなものが生まれてきます。それを感じられるようになったときに、初めて「支配」から逃れられる。
逆にいえば、「継続」しか支配から逃れる術はない。「課」を拒否しても支配からは逃れられない。
ここの理論を、もう少し詰めなければいけないなあ。。
時間に支配されることを拒否したいとは皆、考えているらしいのですが、そのための手段が全く逆である、と。「終わりなき日常」から独り、逃れようとしても逃れられない。ドツボにハマるだけです。
日常と「親和」すること。
時間の支配から逃れて、時間を「使う」ようになればそれでよいわけで、そこで、時間を支配してやろうなどと考える必要はありません。
少し前、早起きを続けてしばらくしてから感じた、あの解放感。。 朝、余裕があるとなぜか、一日が仕事中心にならないという不思議な感じ。。
あそこにも萌芽はありました。
現代人の通奏低音としての不満足感は、マスコミ、というよりはもっと大きな、「時間」に支配されてしまっているからなんでしょうね。
そしてマスコミこそが、「時間」に支配されてしまっている権化です。時間に支配されてしまっているモノに支配されてはいけない。
それにしても「早起きは三文の得」とはよくいったものです。。
「三文」とは、わずかな、の意でしょう。でも、そのわずかを積み重ねれば、「ちりも積もれば山となる」。
日常のかすかな不満足感をかすかな満足感に変えるぐらいのことは、できるのです。
抜粋・紹介
- 作者: 司馬遼太郎,関川夏央
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2003/01
- メディア: 単行本
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われわれは日本人のために戦っているんじゃないのか。それなのに日本人をひき殺してなんになるだろうと思いますでしょう。わたしは二十二歳から二十三歳ぐらいでしたから、もうやめたと思いました。なんともいえん強烈な印象でした。つまり、わたしたちは、日本民族は参謀肩章をつっている軍部の人間に占領されていたわけですね。それはやはり思想的な背景が教説にあるんで、集団狂気のなかからいえば、高崎街道を北上してくる避難民はひき殺していけという結論が出るわけです。ぼくは猛烈に幻滅した。これはマルクス思想に対しても、カトリック思想に対しても、思想の悪魔性という点で同じです。
戦後、アメリカ軍がなるほど占領にやってきたけれども、その占領のほうがやや軟弱な占領であって、その前の占領のほうがきつかったという感じ。ぼくは復員してふつうの生活に入るんですけれども、戦後社会を見たときに、これが初めて日本人がもった暮らしやすい社会なんじゃないかという感じがしましたですね。」
(抜粋・紹介終わり)
日本人は、日本を「占領」していた独裁軍部をアメリカがやっつけてくれた、という思いがあるから、原爆を落としたアメリカに対してアンビバレントな思いがあるわけですね。
それほど軍部というのは独裁だったわけですね。