座禅は組まないけれど
本来の日記部分
- 体調
若干ノドの痛みは残るものの、熱はひき、復調傾向。
再録・継続
- あらためて「節制」の時代 (2)(20070214)
節制による「選民意識」はもっていいと思いますね。節制というのはつまり努力を継続しているわけですから、選民意識を持って「何か悪いか」と思います。それは別に口に出さなくとも心の中で思っておけばいいし、必要なときは口にだせばよいです。
そういうヒトが増えればいいなあ、と思うし、(努力を継続しているのであればある程度傲慢でもかまいません)自分もそうなるべく努力をしています。
中村とうようさんも、相当ムカシの「トーク」で似たようなことを書いていました。「オレは勝手に選民意識を持っている・・・そう思うのは勝手・・・だってものすごく働いてるし税金も納めてるし・・・」みたいなこと。(相当うろおぼえですが)
自分はこの文面を読んで「すっと」入ってきましたが、こういう物言いに拒否反応を示す方々もいるのでしょう。
(再録おわり)
活動・活動に関して(散歩、都市論etc)
- 座禅は組まないけれど
- 作者: 鈴木大拙,北川桃雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1940/09/01
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自分は座禅は組まないけれど、都心を歩くことにより何か「悟り」に近い境地を得ようとしているのでしょうね。
この「悟り」というコトバにするとどうもうさんくさいのですが。。
散歩の途中、心境が「無」あるいはそれに近い状況になることは多々ありますし、それを求めているともいえます。
この心境に達するヒトはたくさんいるのでしょう。だから散歩は気分転換の一手段として認知されているのでしょう。
でも、自分のやっている「活動」は散歩の発展型という位置づけで考えているので。。
単なる気分転換ではない(はず)
でも、座禅は単なる「ファッション」ですよね。自分はこの本を読んでいて、禅の考え方には納得させられるものが多々ありますけど、禅の境地と座禅は全く異なるものだと思いました。
「ファッション」で座禅組んで、ちょっと瞑想っぽい境地に達したとしても、それは、バリ島でマッサージを受けるのと何が違うのでしょうか。
散歩はファッションにはなりえない。あまりにも身近にあるものだから。
散歩により無に近いところにまではいける。ということは散歩の発展型である(と考える)「活動」においては、座禅を組んで瞑想するのではなく、動き続ける(肉体的にも、精神的にも)ことにより禅の境地に達することも可能ではないか、と。
いやいや、だいぶ大風呂敷を拡げてしまいましたな。。
なにかひらめきがあれば続けます。