元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

座禅は組まないけれど

本来の日記部分

  • 体調

若干ノドの痛みは残るものの、熱はひき、復調傾向。

再録・継続

  • あらためて「節制」の時代 (2)(20070214)

節制による「選民意識」はもっていいと思いますね。節制というのはつまり努力を継続しているわけですから、選民意識を持って「何か悪いか」と思います。それは別に口に出さなくとも心の中で思っておけばいいし、必要なときは口にだせばよいです。

そういうヒトが増えればいいなあ、と思うし、(努力を継続しているのであればある程度傲慢でもかまいません)自分もそうなるべく努力をしています。

中村とうようさんも、相当ムカシの「トーク」で似たようなことを書いていました。「オレは勝手に選民意識を持っている・・・そう思うのは勝手・・・だってものすごく働いてるし税金も納めてるし・・・」みたいなこと。(相当うろおぼえですが)

自分はこの文面を読んで「すっと」入ってきましたが、こういう物言いに拒否反応を示す方々もいるのでしょう。

(再録おわり)

活動・活動に関して(散歩、都市論etc)

  • 座禅は組まないけれど

禅と日本文化 (岩波新書)

禅と日本文化 (岩波新書)

「禅と日本文化」を読んで感じることは。。
自分は座禅は組まないけれど、都心を歩くことにより何か「悟り」に近い境地を得ようとしているのでしょうね。
この「悟り」というコトバにするとどうもうさんくさいのですが。。
散歩の途中、心境が「無」あるいはそれに近い状況になることは多々ありますし、それを求めているともいえます。
この心境に達するヒトはたくさんいるのでしょう。だから散歩は気分転換の一手段として認知されているのでしょう。

でも、自分のやっている「活動」は散歩の発展型という位置づけで考えているので。。
単なる気分転換ではない(はず)


でも、座禅は単なる「ファッション」ですよね。自分はこの本を読んでいて、禅の考え方には納得させられるものが多々ありますけど、禅の境地と座禅は全く異なるものだと思いました。
「ファッション」で座禅組んで、ちょっと瞑想っぽい境地に達したとしても、それは、バリ島でマッサージを受けるのと何が違うのでしょうか。

散歩はファッションにはなりえない。あまりにも身近にあるものだから。
散歩により無に近いところにまではいける。ということは散歩の発展型である(と考える)「活動」においては、座禅を組んで瞑想するのではなく、動き続ける(肉体的にも、精神的にも)ことにより禅の境地に達することも可能ではないか、と。


いやいや、だいぶ大風呂敷を拡げてしまいましたな。。
なにかひらめきがあれば続けます。