節制は「アソビ」と代替可能 リアクション体質 スターバッ
本来の日記部分
- 体調
発熱はおさまりましたが、ノドが痛いです。ノドが痛いのは久しぶり。
体調悪く、仕事も全く集中できず。クスリを飲んだので眠く。。
会社シリーズ
- リアクション体質のきわみ
グッドウィルの「データ装備費」でしたっけ、文句が大きくなってきて悪い風評が広がってきたから、じゃあ返します(仕方ないから)、という姿勢は、ホントに。。 哀れです。
そんな対応では、組合が強くなってきたら太刀打ちできないですよね。
組合が強かったら「データ装備費」というわけのわからない天引きはゼッタイに発生しない。
組合が強い大手などは、危うい(かつなあなあな)均衡で会社が維持されているのだろうなあ、という思いを強くしました。
ただ、組合が強い企業というのは、社員は過ごしやすいかもしれませんが、エンドユーザにとっては、果たしてどうでしょうか。
全然話は違いますが、自分が「経済活動」を如実に感じたのは、病院へのスターバックスの進出ですね。
あれは確かにニッチだと思います。薬、会計で30分ぐらい待たされるのが当然、のところに、あのコーヒーのいいニオイが漂ってきたら。。 買ってしまいますよね。
しかも、電光掲示板(「何番の方、お薬ができています」みたいなアレ)が見えるところにチェアがあったりして、呼ばれる順番を逃すこともなく、至れり尽くせりです。
あれは、社会貢献ですよ。ぼーっと、あるいは、少しイライラしながら待っている人たちの気持ちを和らげて、少しのお金で、少しだけ豊かな気持ちにさせているのかもしれません。
そのためであればお客は、コーヒー代ぐらいはいくらでも出すのでしょう。
再録・継続
- 節制は「アソビ」と代替可能(20070212)
自分の、満足感を得ることができる目標なんて、ちっぽけなものです。この「今年の抱負」を守ることによる効果が出てきた、とか。
それがイコール自分にとっての「アソビ」であって、それが世間で言われる一般的な「アソビ」(盛り場に繰り出す、とか海外旅行とか)と完全に代替可能だということです。
一見アソビと思われないものをアソビにしてしまえる能力に長けているわけです(我ながら)。まあこれはオトナ版「独りアソビ」とでもいいましょうか。。(【重要】マーク)
これにはイマジネーションが必要だと思うんですけどね。マスコミが提供する「アソビ」カタログのインデックスからよく考えもせずセレクトしているわけではないので。
で、今の自分のアソビは「節制」なわけでして、これが今世の中でブームになっているかどうか、つまり、「マスコミ版『アソビ』カタログ」に載っているのかどうかは知りません。でも確信を持っていえるのは、そこからセレクトしたものではない、ということです。自分の中から湧き上がってくる「何か」をトリガにして始めたアソビなのです。
ただ、難しいのは、その「自分の中から湧き上がってくる『何か』」ですら、大局的には大きな流れの中にあるということです。その自覚はあります。それは、浮かんでは消える「流行」とは違うものです。
ところで、他人の自分に対する忠告でほぼ100%間違っているのは、私が一般的な「アソビ」(盛り場に繰り出す、とか海外旅行とか)をしないことに対してムリをしていると思っているらしい、ということです。
たとえば「活動」(散歩)していれば、自分は路地裏に「無限」を見出すことができるので、海外旅行は不要なのです。散歩と海外旅行は、内的に無限を見出すか外的に見出すかの違いにすぎません。世界中に国や人々の生活があるように、都心の路地裏にも無限に近い人々の生活がひろがっているのです。
また、B級C級の丼モノを食べ歩いていれば数万円のコース料理は食べなくともよいのです。
すべて、代替可能。
なぜ「ホントはムリしているのでは?」とサグりを入れたがるのか。。
入れてくる人たちはイマジネーションの感度が低いというか。。(もっといってしまえば「民度」が低いのかもしれませんよ)私に対する意見、忠告によりその人どなりを測定する尺度にはなりますね。リトマス試験紙のようなものです。
自分の器の範囲内でしか物事を考えられないから、世間的な「流行りモノ」をしなくとも充足した暮らしを営んでいる人間が存在する、ということすら理解できないのです。理解しようとすると、自分の根源的なところが揺さぶられるような気がして、「恐怖」に近い感情が沸きあがってくるのでしょう。
(再録おわり)
抜粋・紹介
- 作者: 鈴木大拙,北川桃雄
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「心理学は身心ともに強壮な活動的実業家が隠退すると急に衰える例を多く語っている。なぜか。彼らが精力を貯えておくことを知らなかったからである。すなわち活動最中において、退いて顧みるということに気づかなかったからである。戦国時代の武士は兵馬の事に奮然したがいながらも、油断なく緊張しきった神経をつづけてゆくことはできないこと、したがって、いつかどこかで逃避の道をもたねばならぬことを悟っていた。茶の湯が彼らの必要としたものを的確に与えたに違いない。彼らは四畳半の茶室によって象徴される、静かな「無意識」の一隅に暫時退くのであった。、そこからでた時には、心身爽快の思いがするばかりでなく、たんなる争闘よりも永久的な価値ある事柄に関して記憶を新たにしたことであったろう。」
「一芸の熟達に必要なあらゆる実際的な技術や方法論的詳細の底には、自分のいわゆる「宇宙的無意識」に直接到達するある直覚が存し、各種芸術に属するこれらの諸直覚はすべてみな、個々無関連な、相互に無関係なものと見なすべきものではなく、一つの根本的な直覚から生ずるものと、見なすべきものだということである。剣士・茶人そのほかの各種芸道の師匠たちが了得したいろいろな専門的な諸直覚は、要するに、一つの大きな体験の各特殊な応用にすぎないとは、事実、日本人一般からかたく信じられているところである。日本人はこの信念を徹底的に分析して、それに科学的な基礎を与えるようには、まだしていないが、この根本的な体験をもって、一切の創造力、芸術的衝動の根源、とくに、死生の海をこえて一切の無常の形のなかにある「実在」たる「無意識」そのものへの洞徹であると認めている。禅匠たちは究極においてその哲学を仏法の空(スンヤタ)および般若(ブラジュニャ)(智彗)の説から得て、生命、すなわち「生死なき生死」という語をもって、この「無意識」を説く。禅匠にとっては、それゆえに最後の直覚というのは生死を超越することであり、無畏の境に到達することである。彼の「悟り」がこの点にまで熟してきたとき、もろもろの驚異がなし遂げられる。「無意識」は、そのとき、その特権ある弟子たち、諸芸の師匠たちに、その無限の可能性に対し瞥見を許すからである。」
(抜粋・紹介おわり)