教養は必要、という話(再録)
本来の日記部分
- 体調
あれ? というぐらい、風邪は回復してきています。実質1日。
やはり、生活にハリがあるからでしょう(?)。
この現実に引き戻されたくない、と強く願うヒトはいつまでも風邪をひいています。逃避により、現実はもっともっとキビしくなってゆくのですが。。
元気なコドモは、風邪でも、熱でも遊ぶ。常に現実を生きていたいから。現実が楽しいからです。ウチでじっとしてると、ココロから楽しくないのです。
うらやましいというのもありますが、オトナだって本来そうあるべきですよね。
- 仕事
仕事が忙しくて(これは、精神的に、です)
自分のひそかな楽しみである、この日記につらつらと思いを書き出す行為ができなくなっているなあ、と感じています。
思考の大部分が仕事にとられてしまっている、ということですね。
再録・継続
- 教養は必要、という話 (20070124,0125)
山形浩生氏の「新教養主義宣言」をいまさら読んで感じ入ったこと。
(以下、再録)
「教養」のない人は、生きるのに怖くて仕方がないんじゃなかろうか、という話。
「世の中は足し算引き算掛け算割り算さえできれば生きていける」「高校でやる勉強なんて何の役に立つ?」という言説は、絶対に間違っています。世の中はそんな単純なものではないのです。特に、高度成長期以降の日本は。中学レベルの学力、教養しかない、とは言わないですが、高校以上で身につけた学力、教養(わざわざお金をかけて)をドブに捨てて中卒レベルの学力で世の中に対抗しようとする人が多すぎます。そんなんで幸せになれるわけがないじゃないですか。
たとえ、ですが、中卒で立身出世して金持ちになっている人は、ビジネスシーンですでに大卒ぐらいの教養を見につけているはずです。謙遜していたとしても。
「バカでもわかるように作られている最低のハリウッド映画すら話がわからんという人は、実際の世界の支離滅裂な現実の中でどういう生き方をしているんだろうか。ぼくが想像するに、それはなんか巨大なお化け屋敷にいるようなもので、次から次へと何の脈絡もなく変なお化けが出てくるのを、その場その場でやりすごそうとしてひたすら縮こまっているような、とっても怖い人生を送っているんじゃないだろうか。」
山形氏はアジアとか欧米とかの同世代のエリート達には教養という面では集団ではもう対抗できない、といったようなことを書いています(個人では十分勝てる、というオチつきですが。。)。そうなんだろうなあ、と思います。
(略)
引き続き、少しずつ読んでいます。とても面白いです。それにしても、山形浩生さんの連載とかを楽しみに読んでいた頃、なんでこの本を買わなかったのだろう。。
この本はもしかして。。自分の受けた文武両道教育の是非について、ひとつの回答を示している重要な本ではないでしょうか。
田舎で、カタにはめられた教育を授かったわけです、自分は。
石原都知事は、「子供にはもっと暗記科目を」といっています。完全に破綻したゆとり教育、「やりたいことをやらす」教育ではなくて、上から、大人がよかれと思った教育を「授ける」。それが、大人(「この国」につながってゆきます)の経験則から、絶対に子供のためになることがわかっているから、大人も自信を持って教えられる、と。
子供に暗記科目を教え込ませるのはつまり「やりたくないこと」をやらせることであって、栄養のある食べ物をムリにでも食べさせるのと同じです。
で、自分にひきつけて考えれば、私の中にある文武両道教育に対する懐疑心は、「やりたくないこと」をやらせられたところが同じです。今の時代と異なるのは、そもそも暗記科目は厳然と存在していました。
そう、学校とは本来「やりたくないこと」を勉強する場所だったのです!
(略)
その意識を親が子に伝達することができず、子供はカンタンに「面白くないからいかない」と言い出すようになり。。
我々の世代は勉強などが面白くなくとも学校には行きました。なぜならば、「行かなければならない」というのが自然だったからです。
とはいっても特に苦行だったわけではなくて、学校の時間の大部分を占める「授業」が面白くなくとも、その他の隙間の時間、それと、放課後の開放感に楽しみを見出すことができました。そういう意味での「クリエイティビティ」はほとんどの子が持っていたのです。
。。いや、今の子も持っているはずですが。。 若干、楽しみを能動的に見つけ出す、という積極性に欠ける子が増えているような気はします。
だいぶ脱線しましたが。。
自分が、田舎の「文武両道教育」で得たものが「教養」となり、それが自分の価値判断のベースとなり、今の自分の生活の「豊かさ」につながっているわけです。今の自分の生活が豊かであるといっているのではありません。教育で得た教養が今の自分の生活のベースになっているのだから、各々の生活の「豊かさ」はそれに依存する、ということです。
自分が、田舎で受けた教育を肯定すれば今の自分の生活は豊かだといえるのでしょうし、否定すれば豊かだといえない。と、いうことは。。 ある程度は肯定しなければなりません。
いや、薄々これは感じてはいたのですが、このように本を読んだりして背中を押されることは、ありますね。
でも、以前の日記にも似たようなことを書いていますが、この基礎教養を省いてしまって、ハジけてしまった自分がどのようにスピンアウトしたのだろうか、と妄想してみたいのですよ。
文武両道教育の一環である「躾」に関しては、自分は授かった教育に感謝せざるを得ません。だから、「躾」はそのままで、それ以外を省いてしまった自分がどうなったかを見てみたい、ということですね。細かくいえば。
文武両道教育そのものは肯定するとして、自分が過去に「授かった」教育を振り返ってみるときに愚痴をこぼしたいのはその「手段」「方法」ですね。「もう少しいいやり方があっただろう」と。。
たとえば、先生が生徒を懐中電灯で殴りつけるようなことをすべきではないだろう、と。教育とはいえ犯罪に近いでしょう、それは。
大衆の面前で校則違反だからといって髪を切られる、とか。。そういう具体例は枚挙に暇がありません。
今の時代と極端に違うのは、教師がつけあがってはしゃぎすぎではなかったか? ということです。教師全盛時代。。
自分が関わりたくない、と願う「無礼な」人たちとは「教養」のない人たちと結論づけてしまっていいのだろうか。。 そんな気がしないでもないですが。。
彼らは意識的に無礼なのではなくて教養がないから自然、無礼になってしまう、ということですか。。
教養というものが子供時代に「染み込ませる」ものであってオトナになってしまってからのリカバリはもはや不可能なような気がしますが。。
オトナになれば、世の中と渡り合うために体裁をとりつくろうことができるようになるはずですが、それすらも教養がないために振舞えない、という。。
でも、それが多数派になってしまったら各々は気にならないわけですね。周りがすべてそうだから。
(再録おわり)