鈴木先生(2)
本来の日記部分
- 体調
精神的なところで、少しずつダメージが蓄積しており、それを家事に没頭して忘れている状態。
常に耳鳴りあり。
- 仕事
なのですが、今日のように仕事関係でヒトに会うと、また現実に引き戻されます。
抜粋・紹介
- 鈴木先生その2
- 作者: 武富健治
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2006/08/11
- メディア: コミック
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この作品では、その「礼儀作法のなってなさ」が給食(弁当?)の時間に如実にあらわれてくるわけですが。。
「心せまいとかいって逆ギレされるだけじゃん! それにもし。。本当にこっちが心せまくて悪いんだったら。。もし本当にどっちでもいいことなのに勝手にこっちらイラついてるのが悪いんだったら、当然の顔して噛みついてみたって余裕ぶってさとしてみたってオレ、救いようのないバカになっちまう! どっちにしたって言えやしねぇじゃねぇか!」
親から言われた「ぐちゃぐちゃ食べるのは家畜の餌場と同じ」というコトバをそのまま援用して、学校の給食(弁当)の時間を、「家畜の餌場」だと思いこむことにしてやり過ごすしかないという。。
でも、それでは精神状態がいずれ破綻します。結果としてこの葛藤した本人のほうが追い込まれて、「異常行動」に出るしかなくなる、という(私からみると)非常に残酷な話なのですが。。(が、一応最後にはハッピーエンドです)
「心せまいとかいって逆ギレされるだけ」っていうのは未だひっかかってますね。魚のホネがのどにつっかかってる感じ。
指摘することにより、指摘をした本人からも、周りからも逆襲されるのは目に見えている。
そいつは「どーせ」直さないし、直らない(直る「素養」がない)だろうし、間違いなくその指摘をすることにより自分に分が悪くなる。それが最初から見えてしまうわけですね。
自分は「多数派」ではないわけです。
結局やり過ごすしかにないのですが、その「礼儀作法のなってなさ」は、付き合いが続く限り気になる。つまり、軽いストレスが続くわけです。
でも、その人間をキラいにもなるほどのインパクトでもないし。。
結果として、その「インパクト」を探すことになるわけですね。その人間と離れるために。
ところで、この作品が秀逸だなあ、と思ったのは、下記のくだりがあるからです。
「マナーの悪い人なら他にいくらでもいる ○○(礼儀作法が「なってない」張本人の女子)は、自分の知ってるマナーに関しては自信満々で他人を笑ったり非難したりしてたから憎しみを買った」
このセリフを、このストーリーの主人公(葛藤する男子)に共感する優等生の女子に言わせるわけです。
主人公から見て、とある作法について「なってない」人間は、クラスにたくさんいるわけです。
でも、ほとんどの人間は看過できる。なぜなら、もし指摘をしたらそれを謙虚に受け止めるであろう「素養」を持っているはず、という推測が立てられるからです。
ですが、○○だけは看過できなかった。許せなかったのですね。主人公からみて「なってない」○○が、自分のことを完全に棚に上げて自信満々で他人に「なってない」と非難したり笑ったりすることが。
前にも書きましたが、この本は「問題作」ですよね。。
この同世代の作者の考えが作品にモロに投影されているわけで、それが自分の「共感アンテナ」にがんがんきます。
これからは、この国の状況は「家畜の餌場」になってゆくわけですよね。高い確率で。
たとえば、この作品にならっていえば、一度、相手の無礼さを悪気なく(丁重に)指摘したとしても、「心せまい」と言われる前に「そんなの人の自由だ」とか言われてグウの音も出ないわけです。
それに対して「いや、それはホントに自由なのか?」とも言い出せず。。
ですからもう、「自由」を盾に好き勝手やろうとする人間が多数派を占めようとしている現在、「自由」を盾にするまいと誓う人間は、「自分だけはヒトと違うんだ」と思い、無礼な人間のことは視界に入れないようにし、同じように思っている同士を探すしかないのです。
そして、同士がさらに集まって新しい潮流を起こしましょう、と。それが以前も書きました原田武夫氏の主張と相通ずるものはあるでしょう。
はっきりいってしまえば一種の選民思想です。
そして、これも先日書きましたが、「選ばれた」民ではなく、自ら主体的に自らを選んだ、という意味での「選民」なのです。
親はコドモを、その「選民思想」により、同じような思いを持つ親が多い学校に通わせようとします。
公立の学校で、雑多な人間が集まるところでにコドモを放りこんで「強く」生きさせようなどとは思わないのです。
「家畜の餌場」とまではいいませんが、それを「悪玉」と言い換えて、「悪玉」ができうる限り少ないところにコドモを放り込まないと、危なっかしくてコドモを放置していられないのです。
公立には雑多な人種があつまるので自然、悪玉は絶対にいますし、強固な悪玉は善によっては絶対に駆逐できないのです。
この「悪玉」は、ムカシは、劣悪な家庭環境の犠牲者だったりしましたが、現在は、偽「個性」の躾、偽りの自由をコドモに与えた弊害により強固な悪玉に成長するのです。
この作品がざくっと浮き彫りにしているとおり、昭和のよき時代の「躾」をそのまま受け継いでいる、本来多数派になるべき人材が、相当生きずらい世の中になってきています。
という意味において、現代の「まっとうな」コドモたちが強く生きてゆくのはホントに大変なのでしょうね。