元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「他人がどう思うか」(紹介) 再録の効果

本来の日記部分

  • 体調

「歩きながらビール」&帰宅してもビールで、今週ためこんだストレスを発散。
耳鳴りがキツくなってきました。耳鳴りがストレスと健康のバロメータです。

  • 仕事

相当キツくなってきたので、現場の仕事は来週前半は休みます。
今週は、ホント、「今週を終わらせる」のに全力を尽くしました。強烈なストレスをためつつ何とか終了。しばらくストレスを「放電」しつつ休養します。

抜粋・紹介

  • 斎藤一人さんのメルマガより 「他人がどう思うか」

「商売をやっている人なら、あなたのお店でものを買うかどうかって、人さまが決めるんだよ。世の中って、ほとんど他人が決めるんだよ。だから、他人が見たらどう思うかを考えなきゃいけない。」
(略)
斎藤一人さんは「出世させるかどうかは会社の上役とか社長が決める」とおっしゃっています。これと同様に、商売でも買うか否かはお客さんである人様が決めると言います。ですから、会社員の方でも商売をされている方でも「他人からどのように見られているか」という視点を持つことが非常に重要なのだそうです。自己啓発の本ではほとんどが「自分が決める」という書き方をされていますが、この客観の重要性を認識することでより深みのある成功法則につながるのではないかと思います。主観と同時に客観も重要視しながら、商売に励んでいきたいものですね。
(抜粋・紹介おわり)

ホント、客観を気にしないヒトが増えてますよね。。
自分は客観を気にする権化のような存在ですが。。
それを表立って表明することはありませんでしたが、コドモの頃から「人の眼」を相当気にする存在でした。

人の眼を気にしてどうこう、というわけでもないのです。人の眼を気にして「良い子」になるわけでもなく。。
「こういう行動/言動をしたらヒト(親とか)はこういうふうにとるんだな」みたいなことを、コドモながらにずっとウォッチしているような子でした。

そのクセが、自分の人格形成に少しずつ影響していったのでしょう。

「世の中って、ほとんど他人が決めるんだよ」というコトバはすばらしいですね。

たとえば、どれほど髪型をきっちりキメたと自分が思っても、他人はほとんど見ていない。
たとえば、ですが、朝のラッシュ時の駅のホームで、奇声を上げて走り回ったら、ほとんどの他人は自分に注目するでしょう。「オカシなヤツがいてイヤだなあ」と。
単に他人に注目されたい、というのであれば、実現手段はカンタンではあるのです。やるかやらないかは別として。

何かを世の中に向けて主張したいのであれば、その実現手段は自己満足にならぬよう、常に客観を気にしながら考えないといけない。

そういう意味では、外見とか、第一印象とか、他人とまだ「顔見知り」レベルの頃の言動とかは、とても大事である、と常に思ってはいるのですが。
「外見」というのは、各パーツではなくて、「全体」ですよね。「雰囲気」といいますか。

再録・継続

  • 「努力してるけどすましている」(20070119)

「努力してるけどすましている」という、「生き方」とでもいうのでしょうか、そういうのがいいなあ、というのは、おそらく子供の頃から考えています。

常にそうありたいと思っています。それを実践するカンタンな方法は、余計なことをしゃべらないということです。そこまではわかっています。

自分の周りには、それに近い感じで頑張っている人もいるのですが、「最後の局面ではぶちまけたい」というか。。

バーのマスターや、小料理屋のママに、「オレだって頑張ってるんだよ!」とぶちまけてしまうようなイメージです。最後の最後で。

それを悪いといっているわけではなくて、自分の目標は「最後まですましている」ということです。

まあ、このブログ、日記の類が「最後の局面」にあたるといわれてしまったらそれまでなのですが。。

ただ、結果を出さないと何ら意味はありません。

結果が出ないから、最後にぶちまけたくなるのでしょう。

結果というのは、継続して水面下で努力してきたという事実を周知する手段です。

他人からみればいきなりあいつは結果を出しやがって、というふうに見えます。結果を見せつけることにより、「あいつは人が見ていないところでこつこつ努力していたのか。。」と認知させることができます。

結果により認知させることができなければ自分で言ってしまう他ないのです。


「努力してるけどすましている」の正反対の生き方、つまり、人に努力を見せつけている人には要注意ですね。

これは、ルーティンワークにすべきものをルーティンにできず、常に非日常のものとして「頑張ってるんだぞ」と強調してしまう輩たちの話と似ていますね。

ブログで日記を淡々と公開しているのはまた別なのでしょうけど。。 それはルーティンワークの一部でしょう。


山形浩生さんの本の中にありました。「ハッカー(古い本なので「ハッカー」という言葉が使われています)は努力の跡をみせない」という話で。。

「バグがあったんでちょっとパッチを適用してみたよ」としらっとしているが実際のプログラムを見るとすごく努力した跡がみられる。。と。そしてそのパッチも、ムダなものではなく皆の役に立つものであり、皆から尊敬を受ける。。

尊敬を受けながらも「あいつ、楽しそう」と思われるという。。

尊敬を受けるベースは、このハッカーのケースであれば「技術力」です。その「技術力」を得るために、過去にも努力してきたのだろうなあ、というオーラのようなものが透けてみえてくる。。(わかる人には、わかる)

で、スパイスとなるのは「チョイ悪」なのでしょう。法スレスレのことをやって颯爽とくぐりぬけてゆくのがカッコいい、と。

なるほど。。これが自分の理想の生活なのかな? 違うような気もしないでもないですが。。

ひとつの自分から自分への意見としてたまわりましょう。

(再録おわり)

自分の日記をピックアップしてなぜ再録しているかというと、確かに、「我ながらなかなかいいこと書いてるなぁ」と自己陶酔にひたりたい、というのもあるのですが。。

脳の力を振り絞って書き出して、しばらく寝かせて、また読んで、そこで新たなインスピレーションを付記して、また寝かせて。。の繰り返しによって、より自分の考えを確固たるものにしたい、というのがいちばんの理由なんですよ。

で、頑張って書いたものは間違いなく、自分の中では名文なわけです。「ウマい」ではなくて自分にとって「良い」文章かどうかは、その時点でどれぐらい脳みそを絞っているかに比例するのです。
そこに他人は介在しない。

脳の力を振り絞って、というのはちょっと違うかもしれない。
たとえて言うならば、ソファーの下の奥のほうに入ってしまったペンを、手を突っ込んで、手探りで誇りまみれになりながら掻きだす、みたいなやり方に近いですね。

そして、自分の考えがこなれて「確固たるもの」になってゆけばゆくほど、それの表現(表面的な、コトバの表現手法)は普遍的なものになってゆくような気がしますね。
カンタンにいってしまえば「シンプル」なのでしょうが。。
あるいは、少しクヤしいですが先達のコトバに収斂されてゆくとか。。

まだそこまでの境地には達しておりませんが。