元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「馬鹿らしい」と思う話ふたたび(悪しき平等主義) 外見について

本来の日記部分

  • 体調

良いです。天候もよく、すがすがしい感じです。
今後しばらくは体調について書き記すこともないかな。。 であればよいですね。

再録・継続

悪しき平等主義については、常に考えています。

個性を伸ばす教育というのは総論で賛成なのですが、それは大多数の凡人に対してではなくて、ある分野で世界に通用する、ぐらいの人材をコドモの頃から見出し、そこに惜しまずおカネをかけてゆく、という方針であるべきです。
ですが、「誰でも、何にでもなれる」という間違った考え方を皆が植え付けられてしまっていますからね。。
それは若いヒトたちばかりではありません。多数の「いいオトナ」もそう考えています。

「惜しまずおカネをかけて」もらえる、投資するに値する人間はほんの一握りしかいないのです。

また、投資してもらえないからといってひがんでそういう個性的かつ優秀なヒトを引きずりおろしてどうするんだ、と思うのです。レベルが違うヒトはほうっておくか、素直に応援すればいいのです。なぜそれができないのでしょうか。未だに「自分もなれるかもしれない」とカンチガイしているのでしょうか。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 最低限の外見

外見、つまり「服飾」についてですが、周囲に清潔感を与える、あるいは、不快感を与えない、という範囲内では確かにある程度のこだわりは必要ですが、それを越えてしまうと単なる「虚勢」になってしまってムダな支出が発生します。
「最低限のお洒落」というのは結局、いかに周囲から浮かないかということに気を遣えばよいわけです。極端な流行遅れの格好で目立つのもNGですし、偽「個性的」ファッションに洗脳されていることに気付かずにて浮いてしまうとか、そういう後ろ指さされるような状況に陥るよりは、大衆の中で「存在を消す」ぐらいのほうがよっぽどよいのです。

虚勢を張ってムダな支出をして外見を着飾ったつもりでもおおよそ他人は見ていないか、見てくれるとしても「なんかムリしてんなあ」と内心ほくそえむぐらいです。ムリのある虚勢はゼッタイにお洒落ではないのです。それならば「ふつう」で、つまり、最初から誰にも振り向かれなくともよい。外見にずぼらすぎてもいけません。ダサすぎて他人に振り向かれるようでもいけません。