体調はよくなっています ドラマのように人を助けられるか
本来の日記部分
- 体調
よくなっています! 鼻は通るようになってきましたし痰もほとんどでません。
熱はもちろん、ありません。
冬場の継続的な不調も、暖かくなってきたことにより終了でしょうか。だといいのですが。。
- 仕事
久々に仕事頑張りました。。
いやいや、毎日頑張ってはいるのですが。。 今日は特に。
対人関係の問題とか、仕事に支障をきたす何かしらの要素が発生したときは、そこから逃げずにまずそれをピンポイントで駆除する方向で動かなければなりません。
と、いう意味で、今日は頑張りました。「余計な労力を使った」ともいいますが。。
ずっと逃げていると、真底疲弊してしまって、結局自分のためにもならないのです。
でも癪にさわるのは、その仕事上の問題というのは、ほぼ100%、自分が引き起こしたものではないのです。でも、自分に降りかかってきたものは「災害」と同じような感覚で自分で取り除かなければならない。
「職場」と呼ばれるところにいると、そういうことばかりです。
自分は、自分がやったことじゃないことに対して責任をとらされるのが真底キライなので、管理職とかリーダは向いていませんし、「職場」、つまり、企業組織そのものに向いていません。
でも、「頑張る」しかないのですよ。向いていないからといって逃げるのではなく。
再録・継続
- 20070123
- 違和感アンテナ:ドラマのように人を助けられるか?
誰かが暴漢に襲われていたら、助ける必要はないでしょう、この日本で。
自分が殺されるかもしれない、というのもありますし、そもそも関係性が希薄なのになぜリスクを侵して他人を助ける必要があるのか、と思う。
世の中ドラマのようにはうまくいかない。
でも、自分はやるかもしれないよ。もう少しして「もう死ぬ準備はできた」と考えることができたならば。
皆そう思えているのであれば誰でもやるよね。つまり、世の中はもっと良くなってゆくよね。
(再録おわり)
たとえば女性が暴漢に絡まれているときに、見てみないふりをしていると非難の的になります。
先日もそういう事件がありました。列車内で女性が暴行されているのを、大多数の客は見ぬふりをした、と。(犯人が客に対して威嚇した、というのもあったのでしょう)
そのニュースをみて「誰も助けようとしないのかよ」と言うのは勝手ですが、そういうヒトに限っていざ直面したら傍観者になる可能性が高いです。
自分は、「自分がその場にいたら『やめろよ』といえるか?」と自問自答するタイプなので、安易に「誰も助けようとしないのかよ」というヒトよりは、その場にいあわせたときに何か行動を起こす可能性は高い、と思っています。その可能性というのは、「ほんの少し」ですが。。
でも「連帯」を期待できない世の中になっているから、誰も助けようとしないのでしょう。以前、何かに書いたような気もしますが。。
一人が助けようとしてもそのヒトも見ぬふりをされてしまう。というのがわかっているから誰も声を上げない。「皆が助けてくれる」と思えば助けようとできるけど期待できないからやらない。
と、いうことです。
アカの他人のために自分の命を危険にさらすか? というのはけっこう根源的な問いです。警察官とか、そういう職業に従事している場合は別ですが。。
「自分は、家族はともかく、他人のために自分の命を危険にさらすことはしません!」と宣言して何が悪いのか? 他人のために命を投げ出して、それが美談になってしまったとしても、それで死んでしまったらどうしようもないではないですか。
言い方を変えれば、自分の命というのは、家族はごく近しいヒト「だけのために」投げ出されるべきものではないですか? 他人のために投げ出すべきですか? 残された家族はどうするんですか?
「人類皆兄弟」なんてキレイごとではないですか?