の消滅 期待をもたせる
本来の日記部分
- 体調
また、月一で恒例の(?)風邪の症状がきました。「風邪をひいた」ではなく「風邪の症状が出た」ということ。
今回は咳ですね。
- 仕事
電話で調整など。電話は疲れます。。
抜粋・紹介
社会生活をいとまなければならないのに、社会生活に適合できる人間を育てなければならないのに、なぜ、昨今の「教育」では「内発的な衝動や感覚」を持ち上げるのかよくわからないんですよね。
それが、自分の中にある「絵を描けるから何」という考え方につながっているのです。絵をかけたところで社会生活を営むための訓練ができていなければ仕方なかろう、という。絵でもなんでもいいのですが、得意分野の能力だけで一点突破してゆけるほど世の中は甘くないんですよ。それができるのはきわめて稀な、才能がありかつ選ばれたヒトだけなんですよ。と、いったようなことはこの日記で(それとSNSでも)何度も何度も何度も書いてますねえ。。
自分について
- 期待をもたせる
これもすでにどこかに書き散らしているのかもしれませんが、自分はムカシから、他人や親類にあらぬ期待を抱かせてきたらしいんですね。いわゆる「末は博士か大臣か」ってやつです。
コドモの頃、若いころはよく、「期待してたのに。。」的なことを言われたのです。もちろんそういうときに思ったのは「期待してくれなんて頼んだおぼえはねえよ」だったのですが。。
今はもう少し、柔軟に考えることができます。期待されるのは幸せだということ。
オトナになってからは、それがけっこう良い方向に作用している、というか。。
期待をもたせる雰囲気を醸し出している(らしい)がゆえに、期待値込みでカネのいい仕事をもらったりだとか。。
まあ、ビジネスはそんなに甘いものじゃないので、それに見合う努力をしてゆかないと、すぐにキラれてしまうのですが。それで、嫌々ながらであっても期待値に応えようとして「努力」をしてきた、というのはあります。
昨日まで言語化能力について書いていましたが、雰囲気とは別に、けっこう言葉でハッタリをかませられるようになってきた、ということもあるでしょうね。ビジネスはハッタリが勝負ですから。。 カネを得たもん勝ちのところがありますからね。
ハッタリであっても、そこに何かを感じてお金を出してくれるヒトがいるわけです。ハッタリであるということはバレているのでしょうけど。。
要は、努力とハッタリなしでは期待に応えられない、ニセモノなんですよ。そういう自覚はあります。コドモの頃、そして若い頃に、周囲の期待に応えられなかった、というのがニセモノである何よりの証拠なのです。