元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

親類通夜 で思った世代間/地域間のギャップ

本来の日記部分

親類の通夜出席のため急きょ田舎へ。1泊。この日記も1日お休みしました。

  • 体調

通夜の席で酒を飲み、寝るのが遅くなり、次の日ゆっくりできるので遅くまで寝てしまって余計な睡眠時間をとってしまい、頭痛になるという、典型的かつ自分の最悪のパターンですね。
最近、生活のリズムが崩れるのが苦痛です。慣れない人たちとの飲みの席も苦痛。

  • カレンダー(予定の記入というよりはほぼ日記)はこちら

http://www.google.com/calendar/embed?src=stevengerrard.jp%40gmail.com&mode=AGENDA

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • ジェネレーション・ギャップ
    • 若者たち「君の〜ゆく道は〜果てしなく遠い〜」

今回の御通夜ではいろいろな人間模様をみました。私が相も変わらず、特に気になったのは、若者たちです。若者といっても、自分の下の世代すべて含むので、「青年部」とでもいいましょうか。。
田舎から外に出ようとしない青年たち。田舎から外に出ないことが悪いのではありません。今回思ったのは、田舎に根をおろしている「男たち」は逆にすごくいいなあ、と思ったんですよね。居心地悪そうにしている青年たちとの対比で。「男たち」つまり自分からみれば年輩の方々はもう通過儀礼は過ぎているんですよ。田舎の濃い地域社会、血縁関係に順応し、溶け込んでいるんです。今の時代、もうその通過儀礼を若者に課していないような気がするんですよね。だからいつまでも青年たちは宙ぶらりん。地元の青年部の集まりに積極的に参加するわけでもなく、てきとうに遊んでてきとうに働いてる感じがするんです。言い方を変えれば、地域の集まりなどに積極的に参加して活動しているのであれば、仕事はてきとうでいいのです。仕事は適当でも、横のつながりで、地域社会が救済してくれるのです。でも、地域活動にもロクに参加しない若者を救済する余裕はないでしょう。その義務もないし。住んでいるようで住んでいないようなものなんです。
誰かが田舎の思春期やら反抗期やらの話をしていましたが、自分はその反抗期の延長で本当に田舎を捨てた格好なので、未だ反抗しているともいえます。でもそんなことを、反抗しながら田舎の実家でくすぶり続けている青年たち(そこを出る勇気すら持てない)にいくら伝えてもわかりゃしません。そのハンパさには哀れみすら感じるのです。

そして、田舎の「女たち」も、田舎の若者たちと対比すると、すごくいいなあ、と思いましたね。世話焼きのおばちゃんたち、というか。20代前半〜半ばで嫁にいって、ほとんど一心不乱に田舎で子育てをしてきた人たち。世間を知らないということで、自分の違和感アンテナに引っかかるはずが、まったく引っかかってこない。
なぜならば、まず彼女らは、自分たちの立場をわきまえているのです。まあ確かに口は達者ですが。。 全体的に出しゃばってはこない。そして「男たち」と同様の通過儀礼をくぐってきていて、地域社会と共生しているから、「世間知らず」ではないのです。私が嫌いなのは世間知らずなんですよね。強制的であっても地域とつながっている人たちは、そのパイプをとおして世間を知っている。それは、義務なんですよ。義務が人を成長させている。
都会で、わけのわからん「自分探し」している独身女性より、何倍も素晴らしいと思いましたよ。「身の程を知る」ということです。地方には地方のよさがある。

世代間のギャップと、都会と田舎に住む価値観の違いとのギャップで、田舎の青年たちとは2重のギャップがあって、話が合わなすぎます。