「説得力」について(2)
トピック
- 体調
胃が復調傾向にあるためビールを飲んでみましたが、最初の1本は快調でしたが2本目でもうイヤになってきました。このままもう、ビールもフェードアウトしたいものです。
胃腸がおかしくなり、食欲が減退するたびに似たようなことを思うのですが。。
この状態のまま、もうドカ食いするのはやめよう、とか。。
今年こそは、「小食」で通したいものです。
- 不機嫌
何度も何度も書いていますとおり、ふつうに生きているだけで外的要因により腹が立つことはやってくるのですが、不機嫌になるイコール、体調が悪くなるのと同じだ、ということがわかりました。
これは自分にとっては「【重要マーク】」です。
無礼な人たちがもたらす、自分の不機嫌の外的要因に対して、オトナな態度で吸収してしまえるか、つまり、自分自身が不機嫌にならないよう感情のコントロールができるか、といえば。。
それはできないでしょう。そこまで「無礼」というものに対して無抵抗主義ではいられない、というのはこの日記でも常々書いていることです。いくら歳がいったところでそこまで「オトナな態度」をとる必要はありません。
では、「体調不良」と同じぐらいインパクトのある自分の「不機嫌」を抑止するにはどうしたらよいかといえば。。
「外的要因」との話し合い? ムリでしょう、生来「無礼」な人たちに対して何を話したところで。。
引きこもる? それができるのはモラトリアムだけ。
自分が変わる? 無礼な人たちに対して自分を変える必要は全くありません。
つまり、抑止する手段は「ない」という結論。。
一月一善
- 仕送り
年金暮らしの親に仕送りするようになりました。
瞬間的な「プレゼント」などより、まずは定期的な仕送りでしょう。そんなことは当たり前なのに、この時点で人と意見があわないことが多いです。
人が「嬉しい」よりもまず「助かる」と感じることを考えてあげないといけません。それが「一善」でしょう。
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- 「説得力」について(2)
「説得力」について年末に書き散らしていたので、一旦まとめたいです。
努力、一生懸命さ、といったものをスルーしようとする人は永遠に「説得力がない」ままであり、かつ自分が説得力がないことに気付こうとしません。
ですから自分はそういう人たちをさらに「スルー」して、それを反面教師にして自分は「説得力」のある人間になろう、と思っています。
そういった「説得力のない人たち」にご注進して、更正させようという気は微塵もありません。
それはこの日記の根底に流れている私の考え方です。
私には人にご注進している時間はないのです。「申し訳ないのですが」と付け足してもよいです。
自分自身で精一杯だからです。
「説得力のない人たち」はひとつの例ですが、そのように違和感を感じる人たち、あるいは無礼な人たち、集団に対しては「反面教師」として取り入れさせていただくのみです。
違和感を感じたらそのようにはならないよう努力するのみ。わざわざ「おかしいよ」と言いにいくことはしない。
「わかっているのだったらなぜ言ってくれないのか」と甘える不可思議な人たちがいます。
人が意見を言ってくれるよう「門戸」を広げていますか? 言ってもムダだと思われているのではありませんか? 誰かが意見を言ってくれたときに、頭から否定していませんでしたか?
ビジネスにおいては、「改善提案」はお金になるのです。また、たとえば他社の失敗例などは自社の戦略形成のよい参考例になってきます。
わざわざ「おかしいよ」と言いにはいきませんが、「どこがおかしいのでしょうか?」と真摯な姿勢で聞きにきてくれる人に対しては、こちらも誠意をもって対応します。
いや、昔はそう思っていたのですが。。 たとえ姿勢が真摯であっても、間違った既成概念がこびりついている方が多く。。 そういった方は最初から強固な間違った結論を持っていてそれが揺るぐことはないので、最近はそういう方に何を言ってもムダなのかなあ、と考えています。
思い切り脱線しましたね。。
で、自分が「説得力のある」人間になるにはどうしたら? という話にまとめてゆきたいのですが。。
簡潔に結論づけてしまえば「日々努力は続けているのでいつかはなれるだろう」と、楽観的です。
その「努力」が、間違った方向に向いていっていないかを日々監視して、必要に応じて微調整してゆけばよいのではないかと。
そして、専門でない分野について付け焼刃で語るのはやめましょう、ということです。せっかく努力を重ねていても、そういうところからガラスに少しずつ傷がついてゆき、曇ってゆくのです。
(自分で書いていて耳が痛い。。 今年の抱負にしましょう)
別に教養のある人間であると思われる必要はないのです。
ところで、説得力のある人のもとに人は集まるでしょうか。
それは必ずしもyesではないような気がしています。
自分が「説得力」をもちたいのは、それは人に集まってほしいからなのか。。
そんな気がするし、そうでないような気もします。
仮に自分がある程度「説得力」を持った状態になったと仮定して、その状態で集まってきた人たちとは仲間になりたい、と、いうことですかね。
でも、「説得力」とは、その名のとおり説得する力のこと?
ということは。。人を説得しなければならない?
いや、説得力というのは、イメージとしては「一発で」仕留める(説き伏せる)ことができる「経験力」あるいは「オーラ」のようなものでしょうね。
たとえばむちゃくちゃな例をあげれば、サッカーの三浦知良選手がサッカーの練習方法について語ることはすべて説得力がありそうです。彼が「サッカーが上手になるためには、野球の素振りを1日100本しなさい」と真面目な顔で「説得」すれば世の中のサッカー少年はすぐにバットを買うでしょう。
そういうことですね。
何か宗教の洗脳的な話になってゆきそうですが。。 それとは少し違うような気もします。
「説得力」とは、他己があって初めて発生するもの、のようですね。説得力を乞う人たち(需要)がいて、それに対する供給として「説得力」を提供する、といったような。
独りよがりではいけないと思います。
説得力を乞う人たちに対して説得力のある人は自然、マスへの登場がのぞまれます。そのような形でマスに「説得力のある人」が登場してくるのは健全な状態です。が、今はそのような状態にはなっていません。マスに登場するのは望まれる人ではなくて自分で望んで出てくる人ばかりです。
「クリエイティビティ」が必要とされる職種に、素養がない人(単に「なりたい人」)ばかりが集まってくる話と、同じですね。。
http://merumaga.yahoo.co.jp/Backnumber/3840/40290/p/1
うまくまとまらない。。 この話はもう少しいけるということなのでしょうか。。