元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「仲間」や「受け手」の話

トピック

  • 仕事関係でさいたま、与野

外食・食べることに関して

昨日スープ切れでフられた小川町大勝軒へリベンジ。

「そう思ってたんだよ」(うまく説明してくれた)

自分について

  • 「仲間」や「受け手」の話

がなかなか収束せず。。 
収束しないのは悪いことではないのでどんどん書き出してゆきましょう。


また、想い出したことがあります。
昔は、「仲間と過ごしている時間は(楽しいけれど)自分に成長はない」「孤独な時期に自分は成長する」と思っていました。
正しいか否かは別として、自分がある時期このような考えを持っていた、というのは重要です。
今、この考え方を全肯定はしませんが、気持ちはわかります。(なんせ、そう考えていたのは自分なので)

その頃は短絡的だったので、飲み会が続いたりすると「これでいいのだろうか」と虚しくなったりし、それの延長でこのような思いを持ったのだと思います。

今真面目に考えると、はて、「成長とは何ぞや」ということになります。
成長する、しない、ではなくて、楽しい時間というのは吐き出し、消費の時間で、そうでない時間というのはインプットの時間、ということでしょう。
その中間、というか、人と会って話をすることにより「成長している感覚」というのは得られていなかったようです。よっぽど出会いに恵まれていなかったのか。。あるいは、楽しく飲んだりカラオケをするだけで、「語る」ということをしなかったということでしょうか。
「語る」に値する人がいなかった(と、当時は若気の至りで考えていた)ということでしょう。

楽しい、楽しくない、というよりは、充実しているか否か、なんでしょうね、最近の自分の考え方のトレンドは。
昔と比べて絶対的に、生きている残り時間は減っているわけですから。。考え方もシフトしてゆきます。

「仲間」については筆がノらなくなってきたので、話題をかえましょう。