元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

仲間というよりは欲しいのは「受け手」

【トピック】
慶事の際の会食をする店を探していたわけですが、別な人が見つけてきたお店に決まったので、キャンセルしました。
相当釈然としないものが残りました。まず、なぜ店を探していたかというと、頼まれたからです。「私と見込んで」頼まれたと思ったからこそ、貴重な時間を割いて動いていたわけです。
そしたら「キャンセル待ちのところが空いたから。。」と。つまりは、最初からその店にしたかったわけです。私には、「仮押さえ」のお店を探させていたということです。と、いうことは、私がどれだけ労力を割いて、良い店を見つけてきたとしても、もともと意中の店があるわけだから、満足はしてもらえないことになります。それでは、自分の割いた時間に見合いません。

「会社シリーズ」でも書きましたが、人の貴重な時間を占有することを軽く考えている人が多すぎます。
何でもお願いしあえる仲、というのは本当に理想なのでしょうか? それも「親しき仲にも礼儀あり」という前提があってこそ、ではないのでしょうか。

とにかく、徒労に終わることになりそうなことには気をつけよう、と固く心に誓ったのでした。
人からの「折り入っての頼みごと」というのは要注意です。それは、自分に「迷惑をかけよう」としていることと同義だからです。

特に、飲み会、会食の店決め、予約を引き受けるのはやめます。それはすなわち、幹事ですね。幹事は理不尽な仕打ちを受けますから。。

いっそのこと、お金で雇えばよいのです。お金が発生するとなれば、頼むほうも軽く考えなくなります。
はてなの質問コーナーも、ポイントが発生するからこそ、ある程度の礼儀が守られています。

【人間ウォッチング】
乃木坂付近で、大正時代にタイムスリップしたような、相当雰囲気を持った方をお見かけしますが、何者なんでしょうか。全身黒ずくめで、和装のようなマントのようないわゆる「外套」をはおり、街を「闊歩している」という表現がぴったりです。

【オレも、わたしもそう思う、と言ってもらいたい】
先日「遵法意識」について書きましたが、自分は遵法意識は持っているつもりですが、信号はすぐに無視してしまうんですよね。。
ただ、もしも自分が車に乗るのであれば信号無視は決してしないと思います。この差はなんなのでしょうか。

【自分について】
「仲間」について久々に書きます。

仮に「仲間」とよべる人たちができたとして自分が何をしたいか、といえば、まず「語りたい」のだろう、ということを以前書きました。
自分にとって語る相手が減ってきているのは事実で、それにはいろいろな理由がありますが、物理的に離れたから、というのは結構大きいでしょう。田舎->横浜、横浜->東京、と拠点を2回移していますので。(引越しの数はもっと多いですが)
人というのは離れれば疎遠になってゆくものです。最初は遠方でも会ったりしますが、、

ただ、拠点を移しているのは、自分にとってステップアップだと思っています。カッコよくいえばステップアップのために仲間を振り切った、とでもいいましょうか。。 違うような気がしますが。。
拠点を移すたびに孤独になってきているということでしょうか。しかし孤独を望んでいるフシもありますね。孤独になってきているから、拠点の移動は失敗か? といえば全くそのようなことはなく、仲間が減った減らないは、自分にとってほとんど大したことではありません。

たとえば「夢を実現する!」というストーリーは、概して孤独なものです。

そう、この話は矛盾から始まっているのです。そもそも自分は、大人になってからの「仲間意識」のようなものに相当違和感を感じています。「大人になってまで何をやってるんだか。。」と思ってしまいます。
そんな自分が「やっぱり仲間がほしいな」と言ってるのですから。
自分が望む仲間というのは、イメージは「個の連帯」です。そのイメージと学生の頃の青臭い仲間意識とは全く別なものです。

とここまで書いてきて、ふたつ想い出したことがあります。

自分が昔お世話になった方は、15歳ほど年上でしたが、互いによく語りました。サシのこともありましたが、媒介となるもう一人の方もいました。
このイメージが自分にとって「仲間」のイメージに近いような気はします。これはとても私的なもので、他人に対してイメージを具現化して伝えるのは難しいのですが。。

今の自分には、この方のような「器」はないな、と思います。今、15歳下の後輩とつるんで遊べるかといったら。。 絶対嫌ですね。その方は努力して、辛抱強く、若者(その頃の「私」)のほうへ降りてきて、話を合わせてくれていました。
ただ、その方も、私に対して「何か」を感じてくれたからこそ、15歳年下の若造と一緒に遊んでくれたのだと思います。それについては自分は誇ってもよいだろうと思うのです。

それともうひとつ、「受け手」という考え方です。
自分が欲しいと考えるは「仲間」ではなく、「受け手」なのかもしれません。
思い浮かぶのは、ビートたけしに対する高田文夫とか。。(@オールナイトニッポン
「仲間」というと複数形ですが、別に複数である必要はないのです。

先ほどの昔話に関していえば、自分はそういえば、良き「受け手」だったような気がします。年上の方の「若造の意見を聞きたい」という要望に必死に応えようとしていたように思います。
ということは、自分も年をとり、受け手の側を卒業して新たに「受け手」を探しているということになりましょうか。それは別に若手でなくともよいのですが。

自分にとってよき「受け手」がいないと嘆くのは、傲慢なのでしょうか。そうではないと思いますが。。ただ単に「話し相手」が欲しいだけかもしれませんし。。

受け手が「減っている」という考え方は、受け手がいないと嘆くのとはまた違うような気がします。自分が変わり続ければ受け手は減ってゆくような気がします。自分は変わり続けようと思っているので受け手が減っているということは「変わっている」証拠ということになるのではないでしょうか。

つまりは「わかってくれる」人が欲しいということ? いや、そんなセンチメンタルな感情とは違うような気がしますね。

今日は(今日も)うまくまとまりませんでしたが。。 また続けます。