元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

六本木3丁目(活動) 偽ホワイトカラーが多すぎ(1)(会社シリー

【トピック】
MyIEとの出会いは自分の人生に少しだけ影響を与えているように思います。自分にぴったり合っているような気がします。
【活動・活動に関して(散歩、都市論etc)】
六本木プリンス、六本木3丁目なだれ坂付近を散策。
【オレも、わたしも、と言ってもらいたい】
上り階段は反射的に走りたくなります。実際走っています。もう歳なんでキツいのですが。。
鍛えているわけでもないのですがなぜ走り出したくなるのかがよくわかりません。
【会社シリーズ】
[偽ホワイトカラー]
久々に会社シリーズ。。

「楽しく仕事をする」という考え方には常に違和感があります。なぜならば、自分は仕事(イコール労働)というのはそもそも楽しいものにはなりえない、という考え方を持っているからです。それは何回も書き出しています。これは自分なりに出した結論なので、しばらくは揺るがないと思います。
言い方を変えると、自分の時間を犠牲にして楽しくない作業に従事して、その対価としてお金をもらう、ということです。

楽しく仕事を、と考えるのは生活がかかっていない方が多いです。(すべてそうである、とは言いません)
自宅通いの独身の方とか、共稼ぎでどちらかがつぶれても暮らしてはゆける、とか、ひそかに数ヶ月暮らしてゆけるほどの貯金を持っている方とか。
必死に家族を支えていて、住宅ローンを払っている人はそのようなことはあまり言いません。
私も、たとえば他に不動産所得があってそれで生活は維持でき、労働は余剰資金確保のため、ということであれば、労働に対して「敵意」のようなものは持っていないと思います。嫌になったらすぐやめられる、という余裕が必要です。

「楽しく仕事を」という場合に空想するのは、おそらく上位レイヤに位置する、よくわからない横文字職業だと思います。「プランナー」「コンサルタント」といったものが代表的です。
あるいは洗練されたアーティスティックなものも含まれるでしょう。一昔前でいう「手に職」ですが、それが3Kの現場ではなく、なぜか洒落た空間で仕事をすることになっていたりします。

これらは、「ニュー・ホワイトカラー」といってもよいと思います。かつてホワイトカラーといえば主にマネジメント層、営業さんなどのいわゆる「サラリーマン」を指していましたが、その定義はもう意味がなくなってきています。

能力的に資格がないのにも関わらず人々がとりあえず大学に行くようになり、膨大に膨れ上がった大卒はとりあえず皆ホワイトカラーを目指し、その証としてリクルートスーツに身を包んで就職活動します。
そして膨大な数の人間がとりあえず「ネクタイをしめる」(これは、比喩です)ようになります。ですがこれは形だけであって、真のホワイトカラーではありません。

上述の、真のホワイトカラーおよび「ニュー・ホワイトカラー」をのぞく、「形だけのホワイトカラー」が増加しています。

ここから話を展開してゆきたかったのですが、時間切れ。。
まず言いたいのは、完全にブルーカラーの仕事であっても、昨今、ネクタイをしている人がたくさんいて、その人たちが自覚的であればよいのですが、ネクタイをしているだけでホワイトカラーであると「思い込まされて」いるのであれば、かわいそうである、ということです。

気分が乗っていれば明日も続けます。