元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「小損を取る」(5) むしろ計画?

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 例によって結論から。

 引き寄せの法則という漠たるものに過剰に期待するのではなく、綿密に計画を立てて、行動して、必要によってはカネや人も動員して、そして「取りにいく」のです。それが21世紀の引き寄せの法則です(嘘)。

 何かを引き寄せたいのであれば、それを引き寄せるのにもっとも効率的な方法は何かを、脳みそを総動員して考えて実践することです。

 実践とは、アタマを使うのと身体で行動するの両輪です。

 前回までのおさらい… ちょっとしつこいかもしれませんが。

 小損を取っていくと、得を引くことはできるが、それが小得なのか大得なのかもわからないし、いつ得を引くかもわからない。

 そして、自分が得を引いていることすら気づかないかもしれない。

 ということを書いてきました。

 小さいのか大きいのかわからない、ということは当然、具体的にどんなタイプの得がやってくるかもわかりませんし、こちらで得のえり好みをできるわけもありません。

 さらに、どんな損を取ったかと、どんな得がとれるかとに因果関係はないです。ですので、たとえば「●●がほしい」とかそういう得を、小損を取ることにより狙って引くことはできないのです。

 これに関しては非常にわかりやすい例があります。今はどうかわかりませんが、昔、主に中小零細企業の社長連中の間でトイレ掃除が流行ったのです。そういう本がありましてね。その本の名前は忘れましたが…

 で、すみません、私その本(そういう類の本)読んでないのですが(爆)、おそらく事務所のトイレ掃除をすることで売り上げが上がった、皆トイレ掃除で謙虚になれ!みたいなことが書いてあるのでしょう。

 で、それを読んだ「意識高い(苦笑)」社長連中が、さっそく自分の会社でもやってみた、と。自分がやるんならまだいいですよ、でも、サイアクなのは社員連中に押し付けるわけです。「謙虚な気持ちでトイレ掃除せよ!」と。

 社員にとってみればいい迷惑ですよね。そういう会社は辞めていいと思いますね!(笑)。

 結果、まんまと売上は伸びない。どころか落ちる。社長は逆ギレし、そっこーで「効果が上がらない」がためにトイレ掃除施策は廃止します、という壁紙が会社の掲示板に貼られる。

 そんな、三流のコントみたいな風景がホントに!この国で繰り広げられていたんですよ(涙)。

 説明しなくともわかると思いますが、売上を上げる、会社の業績を上げる、という「大得」を狙って、トイレ掃除(小損)をしたり、させたりしてるわけですね。

 社員にトイレ掃除をさせる前に、会社の業績を上げたいんだったらもっと「直接的に」やることがあるでしょう?と。なぜ、学生時代偏差値が高かった人たちが集まる集団で、そういうおバカなことが起こるんでしょうね?!

 あ…こういう議論って昔ありましたね… 「なぜ偏差値の高い連中がみんなオ●ム●●教にハマっていったのか?」みたいな…

 たまたま、事務所のトイレ掃除をし始めたら売上が上がった、ってことは、あると思いますよ。否定はしません。ですが因果関係はありません。

 ところで…

 年にたった一度、元旦に、寒い中初詣するだけの「小損」でもって、壮大なる願望を神様にお願いする方が圧倒的多数のこの国ですが、まさか本気じゃないですよね、と…

 自分は何も行動を起こさない前提での他力本願ですか? と毎年、周りをみていて不安になってきます。完全に余計なお世話なんですが(笑)。

 まぁ多くの人は新年に抱負を立てて、行動を起こそうとはするみたいなんで、完全に他力本願のつもりではないようですが(苦笑)、結局9割方三日坊主ですからねぇ…

 あまりにも毎年毎年繰り広げられる光景なもので、もうこれはただの「ポーズ」なのだな、と思うことにしました。あるいは「エクスキューズ」とも言いますが…

 あ、そうそう、これも毎年不思議なんですけど、たとえば新年に家内安全を願ってるそばからダイエット始めたりするじゃないですか(笑笑)。なんで願望と行動が分裂気味なんでしょうね?

 家内安全を願って賽銭も入れてるし破魔矢も買っとる! とキレられそうですが、でもそれって… 本気なのであれば、すぐにホームセンターにいって家のドアを二重鍵にすべきじゃないのでしょうかね? お金を賽銭箱にいれる必要はないので。

 と、正論をのべたところで結局なんやかんや理屈をつけられて(「その言い方が気にくわない」とかw)同じようにキレられるだけなんですけども(苦笑)、でもまあ、その願い事がかなわなかったからといって翌年の正月にモンスタークレーマーとなって「実現されなかったじゃないか!」と怒鳴り込んでくる日本人は一人もいないようですので(笑)、まだ神仏への畏怖はあるようです。

 というか、初詣で何をお願いしたか、なんて2週間ぐらいで忘れているのでしょう… という意味では本当に、初詣というのは本当に単なる「イベント」なのでしょうね。

 今の若い方は知らないと思いますが、昔、お百度参りという儀式がありました。お母さんが子供の受験が成功するため、あるいは手術がうまくいくように、とお百度を踏むことがありましたが(詳しくはWikipediaで調べてくださいw)、その行為と子供の成功(あるいは失敗)とに因果関係は発生しません。

 ただし、そのことをお子さんが聞きつけることにより、よし、自分も頑張ろう!と発奮し、それが良き結果に結びつく…ということは、あるのかもしれませんし、そのお子さんが、そういうことを意気に感じない性格であれば、何も結果に影響を及ぼさないと思います。

 お百度参りのたとえでもっとも重要なのはお母さんの気持ちなのです。お母さん自身が、やりきった!という満足感を得ることができたり、安堵できたりするのであれば、それでよいのです。

 お母さんは、おそらくその前の段階で、子供を塾に行かせたり、夜食をつくってあげたり、手術の例でいえば入院させる準備をしたり、手術代をねん出したり、そういう直接的行動をしているはずなので、結果と直接の因果関係を持つのはそっちのほうなのです。

 つまり、お百度参りのほうの品質を上げるのは本末転倒であり、ほんとに儀式的なものなのではっきりいっててきとうでよく(九十九回しかやらないとかなわない/百回やればかなう、とかそんなアホなことはありません)、具体的な行動のほうの品質を上げていけばよいのです。

 いや、その前に、具体的な行動を「何をするか?」を考えるほうの品質を上げるが最優先でしょうね。

 そしてこれは余談ですが、このたとえでいうと具体的な行動の品質が高い人は結局「お百度参り」のほうの品質も高いという… だからまるでお百度参りしたから手術が成功した、っていう伝説になってしまうんです。具体的な行動がてきとうなヒトたちはそもそも意志が強くないので、お百度参りを30回しかやらず「神様、見逃して!でも子どものことはよろしく」とか都合のよい願い事もついでにしてしまい、まんまと結果が伴わなかったりしますので、自分の行動の質の悪さを棚に上げて「ちゃんとお百度参りしとけばよかった!」などと、まったくトンチンカンな反省をしたりするのですね。

 私の持論では、このお百度参りのたとえに引きつけていうと、「お参り」は、年に数回、定期的に行くべきなんです。これが私の考える「小損」です。

 そして、結果は求めない。まったく求めない。いや、あえていえば、「すがすがしい」という結果は得られますけどね。神社というのは、良い空気が流れてますので… なのでいってみれば「定期的な散歩」でしょうかね(笑)

 何か「事案」が発生したからすわ百回!っていうアプローチが、間違ってるのです。そういう方は間違いなく、ふだんは近所の神社に近寄りもしないと思います。

 そういう方は、初詣はTVカメラも出動するブランド神社に行ったりしますね。

 さて…結局いくつかのたとえで何が言いたかったかというと、やっと本題ですが(汗)、たとえば「●●がほしい」とかそういう具体的な願望は、小損をとるでもなく、引き寄せられるのをお祈りしながら待つでもなく、別なアプローチでもって実現させることが可能です。

 それが、「計画」(PDCAにおける"Plan")というものです。あるいは複数人であれば「プロジェクト」という言葉におきかえてもかまいません。

 具体的に何かがほしいとか、何かを実現させたいとか、あるんだったら、直線的にただ取りにいけばよいのです。