元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

あの日のこと。(2) 副題:「親父の一番長い日」


あの日のこと。(2) 副題:「親父の一番長い日」|龍澤ヒデアキのバックドア

(「3.11」16時以降ぐらいからの私の実録・体験談です)

家内がいうにはメールは「ところてん」のようにたまに押し出されてくる、と。ママ友から断片的に送られてくる情報では、長男は無事で、トモダチの家まで送り届けてくれ、預かっておいてくれるとのこと。心からの感謝。しばらく遊んでいてくれるのであれば、迎えにいくのは後回しにできるので、しばらくは猶予ができます。

余震は収まっているように思え、中央区に大津波がきていないことを確認。サイアクの状況(津波警報が発令され、勝どき界隈に避難指示が出て小さい子と荷物を抱えて一家で高台に避難する)は起こらないと判断し、自転車で子供を幼稚園に迎えに。この日、自転車(電動)はいつにもまして大活躍でした。

幼稚園および子供、そして皆さん無事。感謝。何度も御礼をいって引き取る。この頃、16:30ぐらいでしたか、晴海(主にトリトンスクエア?)から都心に向かう人の「うねり」、晴海通りの歩道渋滞はすでに始まっていましたね。

それにしても勝どき月島、そして我らが豊海は、古い埋立地だからなのか、液状化の「え」の字もなかったですね。晴海ではちょっとウワサを聞きましたが本当のところはわかりません。古い民家がなぎ倒されたという話もきいていません。部分的な被害はあったのでしょうけれど。


自宅に戻り、家内と相談し、長男を引きとってくれているとはいえ一晩甘えるわけにもいかないだろう(我が家の皿の破損状況を考えるとその、預かってもらってる家もそれなりに大変だろうから)し、とにかく早め早めに事を進めたほうがよいだろうと思っていたので、長男も自転車で迎えにいくことにしました。その距離およそ、片道6キロ。

この頃はじめて、東京の電車が、一切止まっているという事実を「認識」しました。あらためて世の中すごいことになっている。昔自分が子供の頃にあったらしい国鉄スト以来ではないか? など余計なことを考えながら。

片道6キロというのは、平常時でかつママチャリでなければ、なんでもない距離なのですが、都心のいたるところで「歩道大渋滞」が発生しているのだろうということは予見できていたので、相当大変だろうな、とあらかじめ覚悟はしていました。

残念ながら電チャリのバッテリー残量が少なくなってきており。。(もともと満タンではなかった)もちろん、充電する間もなく出発。

それにしても、いつも幼稚園生を乗せているママチャリの後ろのシートに、小学生の長男は乗せられるか? と不安はよぎったけれど、これはもうなんとかさせるしかないだろうと。


で、勝鬨橋をふたたび自転車で渡り、都心方面へ向けて走りだしたわけですが。。僕が目にした状況というのは、なんというか、「未曾有の」悲惨な状況でもなく、とにかく、「これは一生ものだな」と。。

どこもかしこも、歩道は大渋滞してるわけです。(車道はもちろんのこと)ああ、ビジネスアワーに電車に乗っている人たちがぜんぶ道路に出てきたら、こういうことになるのだなあ、と。

車道のように、車の流れが決まっているわけではありません。東西南北すべての方向に帰りたい人がいるわけですから、特に交差点ではすごいことになります。

それでも相変わらず、世の中は笑顔が多かった。罵声やら悪意のあるクラクションやらは、ほとんど聞かれませんでした。11日夜までの東京は、笑顔が多かった。皆、この地震を超巨大なイベントであると思い込むことにしていたのだと思います。


歩道は自転車はムリなのでとにかく車道。原チャリ軍団と同じ進み方で、クルマの間をすり抜けながら。あの状況でもっとも有用な移動手段は自転車でした。ディスカウントストアでは軒並み自転車が売り切れたという話も聞きました。

それにしても、たとえば片側三車線の幹線道路で、自転車でクルマをすりぬけすりぬけ、センターラインまでしゃしゃり出て堂々と自転車をこいだのは、初めてだったかもしれませんし、これからもないかもしれませんね。


目的地(長男のトモダチの家)に到着したのはいつだったか。。暗くなりはじめていたのはおぼえています。何人か、遊んでいました。皆元気であることに感謝。預かってくれた方に感謝。長男に学校の状況などを聞く。避難訓練と同じようにできた! と頼もしい言葉。久々に抱きしめてあげる。

学校というのは頑丈なのだなあ、と再認識した次第。(物理的な頑丈さとともに、組織として堅固だということ)

長男が「おなかすいた!」と元気にいうので(元気なことにも感謝、感謝)友達やその親御さんと一緒に近所のカフェへ。なんだかほっとしてしまい、親軍団はビールで乾杯。。それが18時頃でしたか。

さっきも書きましたがとにかく、この時点で世の中、特に東北が「未曾有の」被害が起こっていることなどつゆ知らず、のん気に騒いでいました。でも、なんか、しゃべりたかったんですよね。酒も飲みたかった、すごく。

あ、そういえば、このだいぶ前FOMAがつながるようになり、現場から電話が鳴るようになったので、リーダに無事ですコールをしました。おそらく現場では「全員無事か?」みたいな安否確認をしていたのでしょう。とにかく僕は、客先にすべてを放り出して(カバン、財布、ノートPC)同僚も無視して逃げてきたわけですから。。ほろ酔いだろうがなんだろうが、一度戻らねばなりません。お客さんにも、突然いなくなったことを侘びのTEL。状況が状況だけにご理解いただけました。僕の荷物は預かっていただけているとのこと。感謝。


長男の友達の家の近所のカフェを出たのが、19時過ぎ。そこからまた復路の6キロ、長い旅路の始まりです。さすがに真っ暗、しかも重い長男をママチャリの後ろにぎゅうぎゅうに乗せて、かごにはランドセルと荷物を載せて。。また、車道をぶいぶいいわせて、車をすり抜けながら行かなければなりません。

しかも、酔っ払ってるし! ふだんなら飲酒運転(自転車)でそっこー捕まってますが、何もかもが許される日というのもある。

帰りはとにかく、長男を載せているという責任と、自分は酔っているという自覚があるので、とにかく慎重に進みました。結局競歩と同じぐらいのスピードでしたでしょうかね。。それと、もうはっきりいってゆっくりしか進めない! 歩道も車道も、すごいことに。でもけっこう空いていたのが、路地ですね。特に銀座とか。路地から路地へゆくショートカットは案外知られてないんだなあ、と再認識した次第です。まぁ、たまたま中央区に土地勘があっただけなのですが。

なんだかんだで無事家に到着、長男を玄関まで送り届け、家内に酔っていることをさとられないよう(!)に休憩もとらず、そそくさと今度は荷物をおきっぱなしの客先へ、ふたたび自転車で。。その頃はもちろん、電チャリのバッテリーはゼロ。ただの重いママチャリと化しています。

勝鬨橋から目的地までは、たぶん8キロ?ぐらい。スタートしたのが21時ぐらい。一人で身軽になったとはいえ、合計14キロママチャリで走った後だけに、さすがに疲れていたような気はします。でもこの日は最初から異常なハイ状態でしたし、さらにビールを飲んだこともあり、とにかくポジティブに考えながら、そしてゆっくり、夜の街を自転車で進みました。この頃はもう、飲食店も混み始めてきていて、多くのサラリーマンは飲み明かす覚悟を決めていた頃でしょう。

「ただの重いママチャリ」になっていたのもありさらに疲れましたが、とにかく強い意志でもって目的地に到着。とにかくお客さんにも感謝、感謝。(アルコールが入っていることはバレないように振る舞いながら!)

客先の職場の空気が、すごく悪い。空調がうまくきいていないのでしょう。それと、帰宅をあきらめた人、人、人。疲れた表情の人が多かったです。特に女性は。。

この頃、地下鉄の一部で運転再開したものの、すぐパンクしてまた取りやめになった、といったニュースが出ていました。


その場で、ちょっとメールチェックしたのですが、地震後の未読の量がハンパない。しかもその内容が、地震前と全然違うというか。。

とにかく地震関連のトラブル報告、「問題なし」報告、そういうのばっかり。途中でイヤになって、重要なメールにレスをつけて、本日の業務終了~と。

すっかり酔いも覚めてまた復路8キロ、えっちらおっちらと自転車をこいで帰りました。

帰宅したのは完全に午前様。家内と事務的な会話。「今日の状況を考えると、地震後1時間で突然家に帰ってきたアンタはエラいよ」と、ホメられてうれしかったです。

ここから、疲れているので泥のように眠りました。。というわけにはまったくいかず!! ここから僕はほとんど眠ることなく、金曜深夜から月曜朝まで、甚大な量の「大報道津波」をモロに、連続してかぶり続けることになります。

でもそれは、わざわざ自分が希望して、その「津波」被害を受けにいったのです。

(了)