元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ムカシはよかったのか?


[再録]ムカシはよかったのか?|龍澤ヒデアキのバックドア

自分が、「旧き良き時代」にはすでに乗り遅れていて、後追いしているにすぎないのだ、と感じるときの、焦燥感を超えた腹立たしさというのは、何なのでしょうか。

僕が考える(刷り込まれている)「旧き良き時代」というのはおおよそ、50年代後半~70年代中盤ぐらいなのでしょうか。

たとえば60年代を通過してきたヒトたちは、「オレたちはビートルズをリアルタイムに。。」という殺し文句を武器に、「ムカシはよかった」の大合唱。
僕らもそのイメージ操作にまんまと乗せられてしまっています。

僕は80年代からずーっと生き続けていますが、ずーっと、ムカシのほうがよかったのかなあと思いながら生きてきました。

でもいつの間にか、80年代は「ムカシ」になってしまっています。80年代はいわゆる高度経済成長は終わっていて、社会が成熟していたが故に、いつまでたっても「旧き良き時代」のイメージが醸成されない。
なぜなら、社会が成熟しているからそもそも旧くないのです。(これからも、ずっとそう)


なぜ腹立たしいかといえば、その「ムカシはよかった」というイメージ操作はカンゼンに間違っているに違いない、誤ったイメージを僕らは植え付けられているにすぎない、ということ。

僕がたまに日記に書いている、昭和ノスタルジーに対する批判(「汲み取り便所の時代に戻りたいですか?」)と根は同じです。

ムカシは、日本はもっとバイオレンスの空気に満ちていた。日本は今よりずっと不潔だった。ビンボーだった。
ムカシはよかった、という輩は、ムカシの日本の暗部に言及しません。

ムカシはおまわりさんは庶民を見下し、「こら!」と叱っていた。ムカシはJR(国電)のサービスはサイアクだった。


旧き良き時代などというのは、先達が勝手につくりあげた幻想にすぎない。ムカシはよかったといつまでも言いたい団塊の世代やその上の世代のでっちあげにすぎない。
ムカシの思い出は美化されてゆく。

前にも書きましたが。。
1回の東京への観光旅行で盛り場に行った思い出を後生大事に抱え、それがさも「歴史」であるかのように吹聴したりとか。。
「ディスコ」とやらに1回か2回行っただけなのに、「あそこには何回も通った」「常連だった」という「事実の捏造」を行ったり。。

そのように、現代史というのはねじ曲げられていきます。


なぜ彼らが、ムカシはよかった一辺倒なのかといえば、実は今を生きる僕らがうらやましいに違いない、と。僕の極論はこうです。

ただ。。僕らの世代は、「僕らが今生きている時代がもっともすばらしい」とは、なかなか言いませんね。

これは、言ったもん勝ち、声が大きいもん勝ちだと思います。

たまたま、人数が多くバイタリティのある戦後世代の「声」が大きかっただけなのかもしれません。

僕らももっと、自分らが育った80年代はすばらしかった、と声を上げるべきなのでしょう。


僕が育った田舎は、その「旧き良き時代」は見渡す限りの野っ原でした。

たとえば、芸能関係のヒトたちが、かつての華やかなりし時代を回顧して「あの頃はよかった」といっているのだとしたら、それを庶民は間に受けてはならない。

そのムカシを「旧き良き時代」と懐古できる人間は、相当限定されるのです。つまり、かつての時代に物質的金銭的に豊かな生活ができたほんのひと握りのヒトたちだけが、ムカシはよかったと懐古できる資格が与えられています。

そりゃそうでしょう、国自体が貧乏な時代に、今と同じような物質的に豊かな生活ができていたのだとしたら、相対的にすばらしい時代にちがいありません。

でも、庶民はそうではなかった。今を生きるのに精一杯だったのです。

「今を生きるのに精一杯」という状況は決して幸せではない。