「選ばれたヒト」に努力してなれるものか
人間が幸せ、というか、「カネ持ち」になるためにはどこかでリスクをとらなければならない、というのはよくいわれることですが、
「選ばれたヒト」というのはそもそもリスクをとる必要がない。
「選ば れたヒト」というのは単に運がよいヒトとは違う。
何が違うか? おそらく、運がよいというのはおそらく一過性のもので、人生全般で眺めればその「運がよいだけ」のヒトはバランスがとれてい ると思います。たとえばどこかで宝くじ1億円あたったのならば、どこかで事業に失敗する、といったような。
ただ運がよいヒトというのは凡人。誰もが、一度は運気がめぐってくるものです。
その「選ばれたヒト」に努力によりなれるのか? なれないのか? というのが僕の研究テーマといいますか。。
「選ばれたヒト」というのはイコール、才能のあるヒトということか? という疑問におきかえてもよいと思います。
才能というのはいかんともしがたいもので、たとえばどんなに努力したところでプロ野球選手にはなれない、というのはよくいわれることです。
でも、才能があるイコール選ばれたヒトではないだろう、と。
ムカシは、ほぼこの等式が成り立つと思っていたのですが。。
才能があるからといって(時代に)選ばれるとは限らない。
選ばれたヒトがある分野で卓越した才能があるとは限らない。
コドモの頃神童と呼ばれていてもほぼ凡人に落ち着くわけですし、高校野球でスーパースターであってもほとんどのスーパースターはプロに入っ て伸び悩みます。
その代わりに、俗に言う「努力家」と呼ばれるヒトたちがノしてくる。
ということは、やはり、選ばれたヒトというのは所与の、天賦の才ではなくて、いつも僕が日記で書いているとおり「努力を継続できるヒト」と いうことになるのでしょうね。。
(いつもと同じ結論ですか)
でも、努力を継続できたところで、多くの凡人はそのまま凡人です。
努力を継続できる才能と、「ある程度以上」の、とある分野で秀でている才能と、そのふたつの絶妙なバランスということなのでしょうね。
この「絶妙なバランス」というか「調合」というのが「神の領域」なのかもしれません。