元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

凡人と、才能と

本来の日記部分

  • 体調

GW明けぐらいからずっと右ひざ関節が痛い。おそらくこれは、GW中歩きすぎたのだと思います。
それを未だひきずっています。
それと、数日前から首が痛くて回らない。。(借金をしているわけでもないのに。。)
寝ているときに寝違えたか、あるいは、先日乗換えの時間が逼迫していたので、全力疾走したのですが、それが悪かったのかもしれない。

  • 体調

ガンバるというのは誰でもできることです。ガンバるということは、特に、マニュアルが必要な「作業」というわけではない。
まァ「ココロのもちよう」に近いものです。

ところで、才能というものは歴然と存在します。人間は一律、一生懸命、ガンバることはできますが、その結果はヒトにより歴然と違ってきますね。残酷なほどに。。

ガンバった結果としてある人間はスポットライトを浴び、賞賛を浴び、あげくのはてには大カネ持ちになることもあるでしょう。そして、まったくもってそうならないヒトもいるでしょう。


そんなことは、アタリマエのことなのです。もって生まれた才能がヒトによって異なるというのは。。
だからこそ皆に「個性」が発生するわけでして。


でも、ガンバることが誰にでもできるのと同じように、ガンバった結果として得られる「満足感」は誰でも得ることができます。

そして、ガンバる→満足する のサイクルの繰り返しによって、人生そのものの満足感が高まってゆきます。


結果、「自分は(スポットライトは浴びなかったかもしれないけど)それなりに豊かな人生を送ることができた」と、いうすばらしい結論を得ることができます。

この素晴らしい人生の結論も、才能とは関係なく誰にでも与えられる権利があるのです。
豊かで幸せな人生というのは才能に依存しない。


若くして交通事故で召されてしまったりするヒトも存在しますが、その確率というのは「才能」を持つか持たないかの確率と同じようなもので、要は、「そういうヒトもいるし、そうでないヒトもいる」のひとことで片付けられます。

その厳然たる事実に対してこだわっても仕方がない。それは変えられないのですから。



才能がある人間の多くは、途中でガンバることをやめてしまうので、人生というレースの終盤においてはガンバっている凡人に抜かれますね。

ただし残念なことに。。世の中に住まう人間の大部分は、凡人でかつガンバってすらいない。
そういう人間は人生というレースにおける「先頭集団」にくることはできません。

凡人でかつガンバらないことを、否定はしません。凡人はふつうはガンバらないものなのですから。
否定はしませんが、まず、そういうヒトはありのままの自分を受け入れることです。

そして、ガンバってる凡人、ゼッタイ的に才能を持っているヒト、など、自分と違う種類の人間に対して嫉妬しないことが肝要です。

いや、嫉妬することすらOKなのですが。。
嫉妬しているという事実を表面に出さないでほしいのです。それは、「公害」に近いものです。