元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

抱負集2007

本来の日記部分

  • 仕事

だんだんとムカつくことがでてきましたねえ。問題の原因の発端をつくった人間がしらっとしていて、オハチが自分にまわってきて「それ、オレがやるの?」みたいなこと。

ビジネス・シーンというのは「それ、オレがやるの?」みたいなことばかりです。本来やるべき人間はうまく逃げる。

でも、うまく逃げている(と思っている)人間も、いつか致命的に信頼を失う「シーン」であってほしいものですね。

抱負(2008)

  • 抱負集

2007/1/30のmixiの日記に、2007年の「抱負集」がありました。
(以下、再録)
20061230
・「〜と思います」口調、文体からの脱却
・オリジナルな文体の確立、的な
・ムダな漢字を使わない。
20070103
「労働」という日課、週課がすぽっと抜け落ちたときに、安定した生活/やりがいを見つけられるか、そして、そもそも労働以外でお金をgetする手段を得られるか、今年が正念場です。時給ン千円の日課(やりたくないこと)を投げうって、自分のやりたいことの日課で代替させ、かつ対価をもらおうというのですから。。
20070107
専門でない分野について付け焼刃で語るのはやめましょう、ということです。せっかく努力を重ねていても、そういうところからガラスに少しずつ傷がついてゆき、曇ってゆくのです。
20070110
、「情報の洪水」から逃げずに、情報の「しぶき」を浴びても自分を見失わずに、さらに身の程を知る、と。
20070119
飲み会には行くけどノンアルコールで、というふうにシフトしてゆきたいものです。
20070128
(ビール)最初の一杯が最高!なのであればそれだけで、それだけが不可能であればせめて缶一本、瓶一本でやめなければいけません。
20070131
大辛はもうやめましょう。
今年は、カタカナ言葉を意識的に多用してみようかな、とあらためて考えています。新たな日本語というか。。大げさにいえば、ですけど。
偉い人=>エラい人、とか、そういう感じの。少しくだけていて、その言葉に新たな意味を付与する、といったような。
20070201
いかに不快な思いをする確率が高そうな場所から距離をおくか
(これと、「一生懸命生きる」とセットでやればよいと思います。距離をおく、イコール逃げる、と他人に思われないことが肝要です。一生懸命生きていれば逃げているとは思われない。)

(再録おわり)

我ながらなかなか面白いことを書いていますなァ。。
実現できたものもあり、実現「できている」ものもあり、方向性が変わったものもあり。。
でもこうして棚卸してみることは有益ですね。

ほとんどは「継続」でしょうね。

抱負(2008)書き出し済 ※1/31まで掲載

  • コンセプト
    • 今年は「僕」
    • 「だからナニ」
  • 基本方針
    • あえて損をとる
    • ほぼ滅私
    • 自身の「2.0化」
  • カネ関係
    • 貯蓄、投資の目標額を設定して、それを実現させる
    • 後悔しない支出をする
    • 近しい他人のためにカネを使う
    • 自身の健康のためにカネを使う
  • 健康関連
    • 晩酌の廃止
    • 脂っこいものを食べない、おなかいっぱいにならない
    • お茶、水なしで食事する
    • 土日、それほど食べない
    • 「つきあい」飲みの(ほぼ)廃止

再録

「自分は子供の頃は野山を走り回っていました」という言葉を誰かのインタビューで見つけました。

この言葉には「それに比べて今の子は。。」というフレーズが続くのでしょうが、こういう物言いは昔から言われ続けていますが、いろいろ反論したくなります。

まず、それは本当なのか?ということです。本当に野山を走り回ったのか? もう美化されていないか?

「野山」というキーワードから、自分のバックグラウンドには「大自然」があるということを伝えたいのだと思いますが、「小自然」に過ぎないのではないか?

次に、そういう幼少の時代は、本当に幸せだったのですか? ということです。「貧しかったけど幸せな時代だった」という回顧をする人がいますが、貧しいというのは幸せな状況ではないと思います。

反論は、あるでしょう。私も持論が固まっているわけではありません。精神的な問題のことを言いたいのだと思いますが、物質的に豊かになっても精神的に豊かになれるとは限らない、というのはわかります。でも、貧しいという状況で精神的に豊かになれる人はほとんどいないのではないか、ということです。

ですので、幼少時代を「貧しかったけれど幸せだった」と思い返せる人は、本当に貧しかったわけではないのでしょう。

次に、「別にそれはふつうでしょ」と。子供は、遊び場が野山しかないのであれば皆野山で遊びます。野山がなく、ゲームしかないのであればゲームをします。

日本全体が貧乏であれば皆貧乏に育ちますし、豊かであれば豊かに育ちます。

戦後の食料難の時代に、「自分は何の苦労も知らずに育った」という話を逆に聞きたいです。当たり前の話を自慢げに聞かされることにうんざりしているのです。それよりも本当の自慢を聞きたいですね。

次に、自然と戯れることを美化しすぎです。子供は、自然の中で遊ぶのも好きですしゲームも好きです。

そもそもゲームとか漫画とかそういうものは、自然の中で遊ぶことに飽き飽きしていた子供たちが大人になって開発した「暇つぶし」なのではないでしょうか。

数多くの人が、豊かな社会の中で「ぬくぬくと」育つ現代の子供たちに、心配しているのではなく、嫉妬しているような気がしてなりません。何とかして「我々の世代のほうがよかった、幸せだった」ということを証明したくてたまらないというか。。 自分の違和感の根源はここにあるのでしょうね。自然の中で育つことを是とするのであれば、今の大人は子供たちに遊ぶ環境(自然)を残したか? 自然を壊しておいて、子供に対して「ゲームばっかりして。。」と言われても筋がとおりません

自然の中で育ってきた(と仮定しましょう)世代と、自然を大人に破壊されて自然の中での遊びを剥奪されてしまった世代でどちらが幸せか、

この議論は、即「今の若いものは・・」につながってゆきます。

ここ10年ぐらいで感じるのは、以前にも書いているかもしれませんが「なってない」大人も多いということです。「なってない」率は若者世代も大人も変わらないのではないか、という疑問が確信に変わっています。ですので、世代間の優劣というのは間違いなくありません。自然の中で育ったからといって「のびのびと、おおらかに」育つわけではありません。イメージが先行しすぎなのです。

今の社会では、ここで生き抜いていくための知恵と、鍛錬が必要で、そのための教育というのは過去と異なってゆくのは必然です。

自分は、今の子供たちが学校、習い事に忙しく「遊ぶ」時間がないという状況に対してそれほど違和感を感じません。過去、日本全体がもっとのんびりしていた頃は、子供ものんびりできましたが、今はできない。それだけのことです。

今、自然の中で育った(と仮定しましょう)子供が、現代社会にほおりこまれたときに、社会に適応し、かつ、自然から学んだことを長所としながら生きてゆけるかといえば答えはNoでしょう。

どの時代でも子供はその生活の中での楽しみを見つけてゆくことができます。